'."\n" ?> 「寄稿」:「蛇行社通信」歌と逆に、歌え:吉田智弥
「寄稿」

2011年1月 4日

「蛇行社通信」歌と逆に、歌え:吉田智弥


 歌と逆に、歌え
昔の年齢の数え方でいえば、この正月をもって「70歳」になる。
世にいう「古希(こき)」である。「人生七十古来稀なり」という杜甫の詩(「曲江」)に由来する。その歳まで長生きすることは滅多にないのだから、春秋のうちに人生を楽しもうと詠った。当人は古希のずっと手前で死んだのだから、先の見通せる人であったわけだ。で、私自身はどうか。人生を楽しんできたのか。
年齢を重ねることについては、当然のことながら、プラスもあればマイナスもある。
 身体の元気が衰えたぶん消極的になりやすい。明らかにマイナスである。世の中に対してついつい悲観的にもなる。或る日の毎日歌壇にご同輩がいた。
 「とりあえず暗い予想をしておけばまず外さないそんな現在」(池田典恵)。
 モノを考える際のバックグラウンドは、体験を重ねることで広がる。そのことはプラスである。だが、優柔不断の材料がふえる点ではマイナス。無謀さは退けられて分別の損得が分かり始める。「家庭の幸せは諸悪の根源」(太宰治)とはよく言ったものだ。・・であるとしても、ふとした瞬間に、はるか幽明の境まで曖昧になるのが家族。
「跫音の如くかそけく木の実降る峠越すとき吾子のまぼろし」(田宮高晴)
 「跫音」は(きょうおん)又は(あしおと)。「かそけく」は「幽けく」で「かすかなさま」を表わす。ここに出てくる「吾子」は生きていれば今月末には67歳になる。大阪市立大学の通称「うなぎの寝床」と呼ばれた自治会室で、ある時は真剣な革命論議をする相手となり、別の時には罵声を浴びせあう関係になった。何かの拍子には憎めない笑顔が蘇ったりする。27歳で北朝鮮に飛んだ田宮高麿の親不孝。
田宮を批判することも、同じクラスだった森恒夫を嗤(わら)うことも簡単である。互いに厳しく対立しあった。本気で、彼らは間違っていたし私は正しかった。
 の筈である。そう言えたらどんなによいか。田宮も森も、我とわが身を袋小路に追い込んで自滅したが、だからと言って、「生き残った」者の正しさが証明されたことにはなるまい。世の中の流れに合わせたから、私は「生き残った」のであって、信じた思想を額面どおりに実践して「勝利した」わけではない。その自覚はある。
 得たのは炬燵(こたつ)の中の「平和」。手も足も出ないのに、ぬくぬくと心地よい。
「公務員試験にここは出ませんと言い添えて九条を終えたり」(中沢直人)
「勝ち組」になるための資格試験はみなそうだろう。「平和」とは今ある秩序が維持されることである。批評精神は嫌われる。異論は葬られる。要領のよい者にはご褒美がでて痩せ我慢する者はのけ者にされる。では、希望はどこにあるのか?
 「70歳」の負け惜しみだと言わば言え。重ねたのが馬齢だとしても、あの頃に全精神を傾けて信じたことが全部ウソであってたまるものか。多少は、身心の老化がもたらした頑固さが混じっているとしても、他のどこに進むべき道があるというのだ。
 柔らかな精神は持ち続けたいが、「ヤワな」精神とはおさらばしたい。意地でも墨守する思いがなければ、どんな思想も次の世代に伝わらないだろう。とすれば、先人に見習って私もまた、マルクスが大著の中で引いた「神聖喜劇」の同じ言葉を繰り返そう。
「汝の道をゆけ、そして人にはその言うにまかせよ!」(ダンテ)
 そしてもう一つ、「花咲く野に出ても敵は敵」(小野十三郎)であるのだと。

2011年1月 4日 11:21

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コメント(1)

 1970年コンピュータのプログミングでBasicが大いに関心をもたれていました。
 そのころ、
 田宮が北の”金”民主共和国に憧れて飛行機をジャック。
 大阪万博が始まっていて、人々が酔っていました。
 万博が終わってニケ月後、三島は市ヶ谷で自決。大阪万博の前後は大いに揺れた世界、日本でした。
 小生は市大でマルクス主経済学原論を佐藤金三郎ゼミで学んでいました。資本論を原書で読む同好会にも。
 田宮は賢いが、森は といろいろ噂を聞いていました。”森が生協の活動家だったとも。
 小生は”全てを疑え”というマルクスの言葉を左右の銘にしております。 
 

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