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片山通夫の「取材手帖」

2010年5月24日

取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫

Vol.3食い詰めて樺太
 ワーリャの話を聞こう。
「私は父がどうしてこの島に来たのかはっきりと知らないのよ。ただあの時代、日本が朝鮮をわがものにした時代、父の家族は貧しい小作農だった。次男坊の父はこのままではみんなが食べて行けなくなると思ったのよね。そんな時、村の役場に日本人が来て『樺太で労働者を探している』と説明があったようなの。役場の朝鮮人の役人が、村の人たちを集めて」
 その時、村役人はこう言った。

「一年に1500円にもなる。契約期間は2年だ。もし募集に応じなかったら、この村では食べて行くことが出来ないかもしれないぞ」
 それまでなかった「供出」という制度が出来た。小作人たちはまず出来た米を供出する。そして残りを自分たちの食料にするか、売るかするわけだ。とてもそんな量は残らないので、結局村を出て行かざるを得ない羽目に陥る。「口減らし」である。そんな状況の中で「年に1500円」は魅力的な話だった。
 すこし話はそれるが朝鮮には李朝時代から「春窮(しゅんきゅう)」という言葉がある。春になって蒔くべき種を冬の間に食べてしまって、春になると窮するという言葉だ。元朝鮮総督府財務局長・水田直昌氏の言葉を借りるなら「馬鈴薯や麦の出来る6月までの三ヶ月間は春窮期と申して全く困る時期であります。これは全人口の8割を占める農民のまた8割であって全人口の6割-約半分に当たります。その人々は春窮期には松の薄っ皮とかよもぎ等所謂草根木皮の類や団栗等を採集して食糧とし、三ヶ月の間命をつなぐ」とある。これは1930年頃までの実情だったと同氏は話している。
 それで多くの農民、特に二男や三男たちは「募集」に応じた。
「そうよ。とてもいい話だったのよ。それで大勢の人が『募集という自由意思』で応募してこの島に来たの。でもとても話通りには行かなかった。給料は最初の一カ月か二カ月程度をもらえただけだって、父は話していたわ」
 「募集という名」の半強制的な労働者集めだったとワーリャ。
樺太は当たり前のことだが寒い。朝鮮南部から来た人々にとって、寒さと飢えの島だった。ワーリャの父は「腹が減って、腹が減って」といつも話していたという。1940年頃の話である。朝鮮で食い詰めて樺太でも同じだった。(次週に続く)

2010年5月24日 11:26

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