2010年12月20日
取材手帖「樺太そしてサハリン」最終回:片山通夫
Vol.29「永住帰国の朝」
その朝は2月のサハリンにしては珍しく晴れ渡っていた。最も寒い季節でもある。ワーリャの運転する車はユジノサハリンスクから40キロほど南に行ったコルサコフに向かっていた。助手席には筆者。
2010年12月13日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.28「サハリンウリマル(韓国語)放送」
「ヨギヌン サハリンラジオパンソンイムニダ ヨロブン、アンニョンハシムニカ」
こんなアナウンスで始まるラジオ放送がサハリンにあった。サハリンウリマル(韓国語)放送である。
2010年12月 6日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.27「セコリョ新聞」
漢字で書くと新高麗である。ソ連時代からある新聞で当時は「レーニンへの道」という名前だった。日本が置き去りにした朝鮮人への社会主義教育が主な使命とされた。ロシア唯一の韓国語新聞である。タブロイド版8ページ。毎週金曜日に発行。
2010年11月29日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.26「鳥居のある浜辺」
ある時、ワーリャがこう言った。
「カタヤマサン。今日の予定は?」
「特に何も...。出来たら郊外へ行きたい」
「じゃあ決まった。北へ行こう」
2010年11月22日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.25「宴の終わりはアリランよ」その2
(前週よりの続き)
食堂に移動した。日本が統治していた樺太時代からの炭鉱の食堂だ。決してきれいなレストランとは言い難いが清潔だった。
余談だがこの炭坑の食堂で焼かれるパンは絶品だ。聞けばソ連時代から有名だったという。そのパンを主食に、サラミソーセージ、酢漬けの野菜、チーズなど、決して豪華ではないが、いやむしろ質素な食事が用意されていた。勿論、ウオッカも。
2010年11月15日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.25「宴の終わりはアリランよ」その1
2002年、日韓共同主催でワールドカップがあった。その時筆者は大阪にある在日韓国朝鮮人の町・コリアタウンにいた。コリアタウンの中ほどに公園がある。その公園では
、近所に住む在日韓国人たちが500人ほど集まって、大スクリーンに映し出される韓国チームの応援で熱気があふれていた。
2010年11月 8日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.24「麻雀パイを買ってきて!」
人間は生活に余裕ができると「遊ぶ」ことに目が行く。前週紹介したブティックを開いたおばちゃんたちもブティックを開いて多少の余裕が出てくると小さな楽しみを見つけ出した。
2010年11月 1日
取材手帳「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.24「飛んでイスタンブール」
ソ連崩壊、韓国との国交樹立そそれに伴ってやってきたビジネスチャンスをつかんだ一人がこの物語の案内人であるワーリャもその一人である。
2010年10月25日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.23「ビジネスチャンスがやって来た」 韓国とロシアの国交が樹立するとそれまで「米帝国主義の傀儡政権の地・南朝鮮」はサハリンにとって身近な国になった。同じことが韓国側からも言える。