2010年8月30日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.16「北朝鮮の暗躍」
「今に祖国は統一される。朝鮮籍をとるべきだ」
朝鮮戦争(Ⅰ950-53年)が終わってしばらくした頃、サハリンでは無国籍の朝鮮人に対して、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在露領事館員がこう説いて村々を回っていた。
2010年8月23日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.15「涙のアリラン」
ワーリャは続けてこんな話をしてくれた。
「何年頃だったかは覚えていないけど・・・」
2010年8月16日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.14「ラジオ放送」
「お父さんは今夜もあそこなの?」
ワーリャは母に尋ねた。
「そうよ。この村にはあそこしかラジオはないからね」
2010年8月 9日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.14「望郷そして慟哭」
ソ連は結局「元日本人」である朝鮮人たちを帰す気はなかった。それでも彼らは無国籍のままサハリンに住み着いた。日本の敗戦のどさくさに「大泊」に移り住んだ人たちも多くいた。理由は簡単である。祖国に帰れる日が来た時には「第一番に帰国船に乗れるよう」にである。
2010年8月 2日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.13「無国籍を選ぶ人々」
日本人は帰国した。しかし朝鮮人たちは帰ることはできなかった。
「まさか」
「俺たちはどうなる?」
2010年7月26日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.12「日本人の帰還」
ソ連の統治が続くサハリンでは、日本人も朝鮮人も、祖国へ帰る夢を抱きながら毎日を過ごした。
そんな生活を日本人は1年以上続けた。そしてようやく敗戦の翌年・1945年12月、日本人のサハリンからの引き揚げが始まる。出港地はホルムスク。入港地は北海道・函館であった。
2010年7月19日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.11「疎開」
ソ連軍の宣戦布告を前に、樺太庁は住民の緊急疎開計画を立案していた。日ソ開戦の1945年8月9日、樺太庁長官は、この計画を軍と協議のうえ、実施することにした。対象は65歳以上と14歳以下の全員、40歳以下の女性ら計16万人。乗船地は大泊、本斗、真岡。15日間で輸送を完了しようと13日、第1船が大泊を出港した。
2010年7月12日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.10「樺太からサハリンへ」
勿論、その頃の樺太には多くの、おそらく30万人は下らない人々がいた。
「新生命」新聞によって、ソ連軍政府の施政方針を徐々にだが知った人々は、諦めとともに「食って行くため」に働かざるを得なかった。軍政府も日本が残した工場など生産施設をそのまま利用して、戦争で不足していた石炭等の生産向上に躍起になっていたことは言うまでもない。
2010年7月 5日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.9「ソビエト軍政下の樺太」
ソ連軍の侵入は真岡の悲劇や豊原の空襲など、沖縄戦ほどの激しさはなかったが、相当の被害はあった。およそ戦争被害や自然災害などの程度を推し量る目安として、「犠牲者が何人」という表現をするが、個々の人間にとっては、犠牲者が何人であろうと「自分や家族、知人など周りの人間」の安否が気遣われるものだ。
2010年6月28日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.8 戦争の裏にある悲劇
すこし話を戻そう。先週号では戦争終結直後の事件を取り上げた。戦争終結は1945年8月15日。日本はボツタム宣言を受諾した。無条件降伏である。
2010年6月21日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.7「敗戦と虐殺」
瑞穂事件と敷香事件
敗戦。そのどさくさに樺太でも悲惨な事件が起こった。朝鮮人虐殺事件である。
2010年6月14日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.6「急速転換」
1945年8月、つまり、日本の敗戦一年前のことである。敗戦色が濃くなってきた時期、制海権をアメリカに奪われて、樺太から、そして北海道釧路の炭鉱から石炭を内地に運ぶことが出来なくなっていた。当時の小磯内閣は不足する石炭の増産を目的に、樺太西海岸と北海道釧路の炭鉱の閉鎖を閣議決定した。これを「急速転換」という。
2010年6月 7日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.5「地獄ですよ。あの時代は」
「みんな、こんな島だとは知らなかったのよ。朝鮮で食べることが出来なかったから、日本人の甘い言葉に載せられてきたのよ」
ワーリャはブイコフからの帰り道にこう言った。そしてユジノサハリンスクまでの車の中で彼女は無言だった。
2010年5月31日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.4 「ブイコフ(内淵)炭鉱で聞いたタコ部屋の話」
「私の父はもうなくなってしまったので、直接話は聞けないわね。ここに韓人会という組織があるからそこでその頃の話を聞いてみたら良いわ」
ワーリャは、「韓人会」というサハリンの残留朝鮮人の組織のことを教えてくれた。
2010年5月24日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.3食い詰めて樺太
ワーリャの話を聞こう。
「私は父がどうしてこの島に来たのかはっきりと知らないのよ。ただあの時代、日本が朝鮮をわがものにした時代、父の家族は貧しい小作農だった。次男坊の父はこのままではみんなが食べて行けなくなると思ったのよね。そんな時、村の役場に日本人が来て『樺太で労働者を探している』と説明があったようなの。役場の朝鮮人の役人が、村の人たちを集めて」
その時、村役人はこう言った。
2010年5月17日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.2 「ワーリャはどんな人?」
ここで読者の皆さんに案内役のロシア系韓国人二世の女性を紹介したい。彼女の名前は
徐順愛(ソ・スンエ)という。生まれたところはサハリン州ユジノサハリンスクから北へ車で40分ほど走ったところにある、ロシアではどこででも見つけることのできるソコルという小さな村だ。サハリンがまだ樺太と呼ばれていた時代、この村は大谷(おおたに)と言われていた。徐順愛(ソ・スンエ)という名前はむろん本名だが、ロシア人にとっては発音しにくいのか、ロシア風のニックネームでワーリャと皆が呼んでいる。だから筆者も彼女のことをワーリャと呼ぶことにしたい。「年齢?」レディに聞くのは失礼だ。話の中でおいおいわかってくるのではないだろうか。
2010年5月10日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
Vol.1 朝鮮から樺太への時代背景
最初はいささか堅苦しい話になる。既に周知の内容なので、書くまでもないのだが、とっかかりとしてご理解いただきたい。
1905年という年を朝鮮半島を故郷としていた人々は決して忘れはしまい。日露戦争が終わりポーツマス条約を締結。ロシアはバルチック艦隊の投入で戦局の逆転をはかろうとしたが、5月の日本海海戦で全滅、一方ロシア国内では革命機運が高揚し、戦争を続けられる状況ではなかった。日本政府は、ルーズヴェルト米大統領に講和の斡旋を要望、8月10日に交渉開始、9月5日ポーツマス条約が締結された。この条約で日本の朝鮮支配の条件は整い、満州進出の地歩を固め、樺太の南半分を領有した。
2010年5月 3日
取材手帖「樺太そしてサハリン」:片山通夫
―韓国併合100年に寄せて
樺太は戦前の呼び名である。北海道・稚内の北、43キロメートルのところに位置する島で南北に長く、北はアムール川の河口に近い。1905年に日露戦争勝利の結果、この島の南半分、北緯50度線以南が我が国の領土となったことはよく知られている。
2009年11月 6日
09年の肖像「シガーエフ氏」:片山通夫
![]()
キルギス国立美術館の館長ユリスタンベク・シガーエフ氏にインタビューする機会を得た。キルギスという国をご存じだろうか?2008年の外務省データによると人口540万人の中央アジアの小国である。首都はビシュケク。旧ソ連邦の一員だったが1991年に独立したがCISの枠内にとどまっている。民族はキルギス人(64.9%)、ウズベク人(13.8%)、ロシア人(12.5%)、ダゲスタン人(1.1%)、ウクライナ人(1.0%)という比率だ。中央アジアの他の国々と同様、イスラム教の信者が多い(75%)。
2009年10月30日
09年の肖像「柿屋を作る」:片山通夫
![]()
古老柿をご存じだろうか?冬近くなるこの時期、京都・山城地区では古老柿作りに忙しい。写真は稲刈りの終わった山里で足場丸太を組んで渋柿を干す「柿屋」と呼ぶ柿を干す小屋を作っている風景だ。
2009年10月23日
09年の肖像「韓国・小鹿島」:片山通夫
韓国に小鹿島という小さな島がある。1916年日本の植民地時代に朝鮮総督府の指示作られたという。ハンセン病患者の「収容(隔離)施設」である。現在はもうハンセン病は完治する病気として認知されているが、当時はそうではなかった。
写真は韓国・小鹿島に住む元患者のポートレートである。人権に考慮して一部を目隠しした。
2009年10月16日
09年の肖像「金春子」:片山通夫
キム・チュンジャと読む。サハリンの韓国語放送のボスである。筆者がサハリンで取材するときには、素晴らしい協力をしてくれるありがたい存在でもある。10年前に初めてサハリンへ行った時には彼女の放送はラジオ放送だけだった。古い機材をだましだまし使って、韓国語でニュースや韓国の音楽などを放送していた。
2009年10月 9日
09年の肖像「自転車タクシードライバー」片山通夫
![]()
すこし派手な写真になってしまった。何よりも珍しくカラーである。マレーシアという国をご存じだろう。東南アジアの中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部・サバサラワク州から成り立っています。国土面積はマレー半島部分とボルネオ島部分を合わせ、33万228平方キロメートル。日本の面積の9割弱の広さの土地に、日本の16%の人口が住んでいることになります。(この項マレーシア政府観光局HPより)
2009年10月 2日
09年の肖像「パク・ヘリョン」:片山通夫
![]()
サハリン生まれの、所謂サハリン韓人二世である。ソ連邦時代は、ソ連共産党の要職に就いていた。そして現在サハリン韓人組織の先頭に立ち、日本政府、韓国政府を相手に補償問題に取り組む。筆者も何度かインタビューをした人である。
2009年9月25日
09年の肖像「ブイコフの証人」:片山通夫
![]()
昔、サハリン南部が樺太と呼ばれていた頃、内淵という町があった。現在はブイコフと呼ばれている。その町は、樺太最大の炭鉱の町だった。帝国燃料興業株式会社という国策会社が運営していた。石炭から石油を製造していたという。
2009年9月18日
09年の肖像「朋友」:片山通夫
![]()
「おはよう」と筆者。
「なんや?こんなに早く...」
「いやちょっと関空へ行く用事があって」
「関空?ここは泉北ニュータウンの中やで」
「いや、車だったので時間を読み間違えた」
2009年9月11日
09年の肖像「韓国の友人」:片山通夫
![]()
突然、電話がかかってきた。電話の向こうで何か申し訳なさそうな声がした。いささか心もとなさそうだった。
「キムデスガ・・・」
「エー?いまどこよ?」
「ニホン・・・」
2009年9月 4日
09年の肖像「出石の町で」:片山通夫
今年82歳になる。娘は「仕事を辞めたらいいのに」とうるさいのだけどと笑う。兵庫県北部の町・出石は皿そばで有名な小京都と呼ばれる歴史的な美しい町で唐辛子を売っている。
2009年8月28日
09年の肖像「行き交う人」:片山通夫
![]()
京都に「流れ橋」という橋が木津川という川に架かっている。その名の通り川の水が多くなると流れると言う仕掛けの橋だ。詳しい説明は置くとして、ここに架かっている橋は(どこでもそうだろうが)生活のための橋である。
2009年8月21日
09年の肖像「カン・シンニョン」:片山通夫
「熱い」人だという印象を最初に受けた。彼女は韓国から日本に来た。もう8年になるという。達者な日本語を駆使して在日韓国人の多く住む大阪の町を走り回っている。
2009年8月14日
09年の肖像「ヒマワリ畑」:片山通夫
その日はあいにくの雨だった。それにもうすでに時期が遅かったのか、15万本のヒマワリは、見るも無残な様子だった。盛りを過ぎて雨にうたれているヒマワリ。
2009年8月 7日
09年の肖像「ミッチャンのこと」:片山通夫
![]()
沖縄出身だという。昨年秋に店を開いた。沖縄料理と酒。酒は泡盛と焼酎が中心だ。料理は彼女手作りの沖縄料理。こちらでは手に入らない食材は「沖縄から取り寄せる」と胸を張る。店の名前が変わっている。「たこふじ」。なぜこんな名前になったのか少し興味があったので聞いてみた。(写真:たこふじで09年8月4日夜撮影)
2009年7月31日
09年の肖像「インド・ムンバイで」:片山通夫
![]()
インドも多民族国家である。それに加えて、カースト制度が生きている社会が残っている。在大阪インド総領事館では公式には「カースト制度は滅んだ」と言うが...。
2009年7月24日
09年の肖像「高 政美」:片山通夫
![]()
高さんは数奇な運命をたどった一人である。3歳の時、両親とともに、北朝鮮への帰国船に乗った。その時一緒だった兄は10代半ばだった。帰国船が北朝鮮の港に着くなり兄は激しく下船を拒んだ。
2009年7月17日
09年の肖像「クレタ」:片山通夫
サハリン韓国語テレビ放送の記者である彼女は、アルメニア人だ。自分ではカメラを持って取材はしない。しかし、十分な調査とインタビューで一つの番組を組み立てる手腕には脱帽する。むろん韓国語はできない。
2009年7月10日
09年の肖像「カン・チョルファン」:片山通夫
![]()
簡単に彼・カン・チョルファン(写真)の経歴を最初に紹介しておこう。1968年8月18日に北朝鮮・平壌市で生まれた。現在、韓国の朝鮮日報(新聞)の記者として活躍している。
2009年7月 3日
09年の肖像「田中了さん」:片山通夫
![]()
北方少数民族をご存じだろうか。サハリンに住んでいた「ウイルタ」という北方少数民族で、戦後シベリアに抑留された一人の男の足跡を辿った本を田中了さん(1930年生まれ・写真)が以前出版した。
2009年6月26日
09年の肖像「オルガ」:片山通夫
フルネームで書くとKhai Ok Dya と言うそうだ。サハリン州立美術館のキューレータである。先ごろ開いた筆者の写真展の担当をしてくれた。この写真を撮ったとき、彼女は少し悩んでいたようだった。
2009年6月19日
09年の肖像「本多立太郎翁」:片山通夫
ご本人は「翁」などと言われればさぞかしご不満だろう。本年95歳だとか。そしてなお現役で活躍されておられるのだから、「翁」と言うのはまずいかもしれない。「翁」と言う文字の持つ響きが「既に退役された」かのような印象を持つからである。しかし「年上の方を敬って」という意味もあるそうだ。
2009年6月11日
09年の肖像「クリスティーナ」:片山通夫
2009年5月21日
09年の肖像「ソコル(大谷)の韓人二世」:片山通夫
![]()
この写真は今年3月に撮った。吹雪の翌日のことである。場所はユジノサハリンスク郊外のソコルという村の入口。この村には戦後朝鮮人が多く住んでいる。写真の徐順愛(ソ・スンエ)もその一人だ。
2009年5月20日
09年の肖像「島根の夫婦」:片山通夫
島根県と広島県の県境にある集落に取材に行った。そこはいわば、中国山地のど真ん中である。広島駅から車でたっぷり3時間はかかる。その集落は最年少の人でも60歳である。「もう40年も若者を見ていない」とこともなげに言う。
最近のコメント