2011年1月 1日
講演録 私たちはこの世に存在すべきではなかった1;ルードウィク・ラーハ(金子マーティン訳)
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あけましておめでとうごさいます。今年もよろしくお願いします。
オーストリアの作家ルードウィク・ラーハさんがオーストリア・スィンティ三女性の生活史(一九二三年から二○一○年まで)をまとめ凱風社から金子マーティンさん(日本女子大教授)の翻訳で『私たちはこの世に存在すべきではなかった』(2009年)と題して刊行した。これを記念して昨年10月末に大阪市内を会場に講演した。今回、2011年の念頭にあたり翻訳の金子先生のご好意により全講演の内容を皆さんにお届けします。原稿にして22万字、400字詰め原稿で55枚になる。(川瀬俊治)
かつてオーストリアはヨーロッパの中心部に位置する巨大な多民族国家でした。しかし、第一次世界大戦の敗北によりハプスブルク帝国は崩壊し、オーストリアは北海道とほぼ同じ面積の小国になりました。そのような大変動があった直後の一九二三年、ローザ・ケルンデルバッハが生まれました。
日本でも二○○九年八月に金子マーティン訳、凱風社発行で刊行された『私たちはこの世に存在すべきではなかった』は先駆的な読み物です。なぜなら、オーストリアの少数民族、スィンティの当事者である三人の女性がその書物のなかで自分史を赤裸々に公表したからです。同じ家族の三世代の女性、祖母と母と娘、それぞれが一九二三年、四六年と七八年に生まれた女性たちが、ほぼ一○○年にわたる迫害と差別について訴えています。しかし彼女たちは同時に五○○年以上もまえにアジアからヨーロッパへ移住した少数者集団スィンティの日々の生活、そのしきたりや習慣、そして文化についても報告しています。
フランスのサルコジ大統領が大量のロマをその出身国のルーマニアやブルガリアへ強制送還すると決定した二○一○年七月のころから、ロマの人権問題がEU圏内で大きな社会問題として論議されています。ルーマニアもブルガリアも二○○七年からEUに加盟しています。EU市民にはEU圏内で自由に移動する権利、また移動先で定住する権利も認められているのですが、フランス政府の対応はそれに明らかに違反しています。そのため、フランス政府は欧州委員会から厳しく批判されました。ロマもEU市民であるのに、ほかの市民と同等の権利が認められず、不平等な扱いを受けつづけていることが、またもやあらわになりました。エストニア人、デンマーク人、キプロス人、フィンランド人、ラトヴィア人、リトアニア人、ルクセンブルク人、アイルランド人、マルタ人、スロヴェニア人、これら一○民族の人口は、EU圏内で暮すロマ人口の半分にも満たないのです。
スィンティをも含むロマの起源と、スィンティとロマという区分についてかいつまんで説明しましょう。ヨーロッパの中世後期にあたる一五世紀初頭から一八世紀にかけて、おそらくインド北西部を原郷とする民族による二つの波がヨーロッパ社会へ押し寄せました。最初に到着したのがスィンティで、主に中央ヨーロッパを生活の場に選びました。それにやや遅れてロマの諸集団が移住してきました。スィンティの言語とロマ諸集団の言語はかなりの違いもあるのですが、どちらもそのルーツはインドのサンスクリット語にあります。
スィンティやロマの自由な移動を保証する保護状、つまり現在の旅券のような証明書を神聖ローマ帝国の皇帝などが発給しますが、一五世紀末になるとそれら保護状の無効が帝国議会によって決定されます。その結果、現在のオーストリアに相当する地域でもスィンティやロマが厳しい迫害を被るようになります。一五二九年秋、ウィーンは三週間ほどオスマン帝国軍に包囲されましたが、その翌年に開催された帝国議会でロマに「トルコ軍のスパイ」という嫌疑がかけられます。あるいは御法度の魔術を使うとか、その人口が多過ぎるとか、さまざまな口実を設けて帝国議会はスィンティやロマの法的保護を剥奪しました。つまり、スィンティやロマを殺しても罪がとがめられない「斬り捨て御免」の時代に突入したということです。あちらこちらでロマの殺戮が繰り返されました。私の自宅から南方へ二キロぐらいのところでも、一六五八年に数百人の「ジプシー」の大量虐殺がありました。殺されなかったのは唯一子どもたち、そしてそれらの子どもは労働力として地元の農家に引き取られました。
ローザ・ケルンデルバッハが生まれた一九二三年当時、スィンティやロマの大量虐殺の時代はとうに終わったかのように見えました。一八六○年代からスィンティやロマはむしろ制度化した官僚主義的な差別にさらされるようになりました。さまざまな法律や法令が活用され、スィンティやロマの生存そのものが困難になったのです。二○世紀初頭、「ジプシー」と目された数千人の人々の履歴も掲載する『ジプシー総鑑』を警察当局が発行し、各地方警察はスィンティやロマの追い払いに躍起になります。スィンティやロマの犯す犯罪が主として微罪であるのにもかかわらずです。農家からニワトリを失敬するとか、営業許可書なしで行商をするとか、平時に軍服を着用したなどの類です。
ローザ・ケルンデルバッハが生まれた当時、オーストリアのスィンティはどのような生活をおくっていたのでしょうか?
ナチス時代におけるスィンティやロマの大量虐殺と、敗戦後も数一○年にわたってつづいたその史実に対する徹底した無関心の結果、一九三九年から四五年まで続行した第二次大戦以前の時代にスィンティがどのような生活をしていたのか、どのような文化を持っていたのか、その記憶はほぼ完全に失われました。大半のスィンティは三月から一○月にかけて家馬車で移動生活したでしょうが、多くのスィンティはさまざまな地方自治体の郷里権を有しており、その自治体の住民として借家や持ち家を所有していました。子どもたちを冬季のあいだだけでも通学させたスィンティ家族も多かったでしょう。家馬車での移動生活に終止符を打ち、定職について定住する同化したスィンティまでいました。
拡大家族集団だったケルンデルバッハ家の構成員もさまざまな職業についていました。マリア・テレーズィア女帝のころ、つまり一八世紀のころから、大きな森林を所有したある貴族のために役馬を提供した家族もあれば、蹄鉄づくりを専門に手掛けた家族もありました。ケルンデルバッハ家構成員の多くが郷里権を有していた地域、アッハ村の農民たちは、ケルンデルバッハ家から買った馬が耐久力と元気のあるかしこい最高の農耕馬であることを知っていました。
ケルンデルバッハ家には音楽家もいました。村の祭事があるときなど、伝統的なオーストリアの民族音楽も奏でれば、「ジプシー音楽」の調べも演奏しました。ケルンデルバッハ家構成員の七○人ほどが郷里権を有していたアッハ村の墓地に一九三八年二月二八日に死去した音楽家ローベルト・ケルンデルバッハの墓があります。そのローベルト・ケルンデルバッハはナチス・ドイツがオーストリアを占領する二週間前に死にました。
ケルンデルバッハ家の人々の一部は行商人としても生計を立てていました。農村では手に入りにくい生地を主に行商しました。ローザ・ケルンデルバッハは行商にたずさわる家系で産まれました。ローザには姉妹が八人、弟が一人、ローザ自身も含めれば合計一○人の子どもがその家族にいました。第一次大戦中、父親や数名の伯父たちはオーストリア・ハンガリー二重帝国軍の兵士として従軍しました。軍服を着た親族の写真をローザは何枚も見せてくれました。
ヨーロッパ諸国には数百年間もつづくスィンティやロマに対するすさまじい偏見が渦巻いています。そのような偏見の多くは、スィンティやロマの考え方と多数派社会で通用する考え方の違いに根差しています。たとえば、スィンティの理解では原野の動植物、あるいは河川や湖水の魚は人間共有の財産であり、誰もがそれを自由に利用できます。しかし、ヨーロッパ人の理解では、その原野・河川・湖水も私的所有の対象です。この対立する観点はいたるところで衝突を引き起こしました。そして、スィンティやロマはたとえば密猟者・密漁者として逮捕され処罰されました。最終的にはだれも見向きしないような小動物、ハリネズミのような動物の狩猟のみがスィンティやロマに許されました。
2011年1月 1日 00:02
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