2011年1月30日
日曜日新聞読書欄簡単レビュー:川瀬俊治
朝日はN・Dクリストフ、S・ウーダン『ハーフ・ザ・スカイ』(英治出版、1995円)、D・バットストーン『告発・現代の人身売買』(朝日新聞出版、2625円)を紹介している。評者久保文明。現代も実は奴隷制があるという告発であり、読んだものは頷かざるを得ない。
2011年1月 9日
日曜新聞紙読書欄簡単レビュー:川瀬俊治
今週は小説2作品、哲学書1作品、1歴史理論書を紹介
しましょう。
津島佑子『黄金の夢の歌』(講談社、2310円)ー朝日ーは柄谷行人が書評している。本書は3層からなり、1層は一人称あるいは二人称によって語られる。「わたし」の父は青森出身であることからツングースの末裔と感じでおり、狩猟遊牧民であるアイヌなどに親近感を得て語られるが、遊牧民がおかれている近現代の状況が筆写される。2層は古代からのユーラシアの遊牧民の歴史が語られる。3層は非人称で綴る文で表題「夢の歌」になる核心部分だ。「夢の歌」がオーストラリアの先住民が伝えてきた物語であり、国家の支配を受けても記憶から消えることはない。柄谷は「トット、トット、タン、ト」というマケドニアの騎馬の蹄の音としてたびたび3層に出てくることを「抑圧されたものの回帰」というフロイトの深層分析をあてはめているが、かつて著者の父太宰治が書いた小説「トカトントン」が「世界の一挙にネガティブに変容させるのに対して、逆に世界をポジィテブに反転させる」(柄谷)と評して、この力は津島しか書けないと高い評価を与えている。柄谷の頭を過ぎったのは多分中上健次が生み出した「路地」ではなかったのか。中上は「路地」の賛辞を書くのに折口信夫の作品を読了し、古典文学を喝破し古代からの被差別民の苦闘で一本化して貫く世界を創り出した。それは近代文明でまとわれた価値観からの超克であった。近代的価値観で鳥瞰、俯瞰するならは現在苦しんでいる差別は常にその時代の価値観でくくられ支配される。それを乗り越えるには、柄谷があげた「抑圧されたものの回帰」が光明を見出す。決して「抑圧」されるものを具現するのではなく解き放つ賛歌であった。またアナクロニズムではないことは中上の作品群が示している。津島に戻る。津島は日本の作家が一度もなしえなかった先住民、遊牧民の賛歌を作品化したのである。「津島佑子という小説家以外いん、このようなことを書ける者はいない」と柄谷が書くのは、小説世界で久しぶりに感じた喜びと発見であるのではないか。柄谷の深層からの心の吐露のように感じるのは私一人ではないだろう。
歴史認識の限界を超えようとした作品、あるいは超えることを試みた格闘の書は上村忠男『知の棘 歴史が書きかえられる時』(岩波書店、2520円)ー朝日ーだ。すべての歴史は現代史であると書いたのはベネット・クローチェだが、それは歴史が常にイデオロギー叙述に陥るゆえんだ。これをどう超えるか。他者との関係の叙述である歴史にその活路を見出す。自己言及的でしかありえない私を他者に開くかーここに本書の特徴がある。評者高村薫は「認識主体の限界を内破せんとして、現在の生に身を投じる」と著者を評している。リオタール的能動とも高村はいう。凡庸な事実列挙した、あるいは実証主義的な歴史学者では上村の本領というか、文明史家ともいえる歴史学者の渾身の書ではないか。
日経では作家松井今朝子が「半歩遅れの読書術」で色川武大の『狂人日記』(講談社文芸文庫)を紹介している。「私小説的な現実の世界と幻覚の世界に継ぎ目がない」、両者がいつ移行するかわからない本物の小説と評している。この作品の語り手は自分の頭がこわれていることを大事にするのだから、私小説的世界に安住することを拒絶する壮絶な作品なのだ。この日経のコーナーでは最初は電子書籍の利便さをあげる松井は確固たる手触りを求める書籍派であることで文の最後をしめるのはこの『狂人日記』という小説がそうさせるのだ。
毎日は苅部直『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、3045円)が第9回毎日書評賞を受けたことを伝え、著者の書評に取り組む姿勢を書いている。箇条書きにすると以下のようになる。●心がけていることは偉そうにしないこと。批判から入るのではなく、面白かった点を自分自身の声で語るようにする。そんな「おまけ」の部分が書評では大事●使い古された一方向の結論に導かない。いつの時代も多元的だから。多様化自体を面白がること●外の刺激に開かれることが、自分の中に引き出しを増やすーと毎日のインタビューで答えている。選考委員である池澤夏樹が「専門家の書評は目前の事象に対する素早いレスポンスであり、素人へのガイダンスである」と書いている。具体的には国際政治と軍事で苅部があげたマイケル・イグナティエフとマイケル・ウォルツーァ、半澤孝麿を並べて書いた書評をあげる。三書がセットで紹介されていることに注目している。憲法と天皇の関係では奥平康弘と市倉宏祐、佐藤正英を束ね、現場的学説と歴史を繋ぐ。天皇の退位を論じた奥平の「天皇の退位を禁ずる『脱出の権利』を、天皇に認めていない点で、日本国憲法に違反する」とあることを知って、自分の考えを一歩進めるヒントを得たと池澤は書いている。井上荒野の小説『切羽へ』の書評に狭義の書評の力量を評価している。
読売はジョン・ロールズ『正議論』の新訳を堂目卓生(大阪大教授)が紹介している。紀伊国屋書店が川本隆史ら3人が新訳した本だ。川本はロールズの『正議論』の研究者として私立大学で倫理学を講じていた時に彼の本を読んだことがある。ロールズの思い入れはついに新訳をだしたかと今回まず感じた。7500円もする本だが、堂目の紹介ではどうした点が新訳は旧訳と違うかを書いていないが、何が本書でとかれ、今、旬であるハバード大学のマンデル教授の正義論との違いがあるかがよくわかる。「善き生き方」は個人の領域にまかせるべきとするロールズの正義論に対してマンデル教授は「美徳」の問題にも積極的に関与すべきだと説く。堂目はマンデル教授の説には賛同していない。「善い生き方を個人が選ぶ自由」どれだけの尊い命の犠牲から手に入れたものかを忘れてはならないと説く。「社会全体で善き生き方である美徳の話をしよう」との声は現代の閉塞状況を打ち破る声として魅力あるが、「リベラリズムを手放すことなく個人間のつながりを深めることにより共同体としての活力を取り戻し」と堂目はいう。
2010年12月19日
日曜新聞紙読書欄簡単レビュー:川瀬俊治
今日は朝日、毎日とも見開きで「今年の3冊」を紹介しているが、読書欄の残る1面で取り上げた本を紹介しよう。文中敬称略。
毎日は「この人・この3冊」でジャン・ジュネを取り上げている。3冊のうちジャン・ジュネは『泥棒日記』は読んだが、それ以外にエオドマン・ホワイト『ジュネ伝』上・下(河出書房新社、各4725円)、ジュネの詩集『ジャン・ジュネ詩集』(国文社、1995円)をあげている。評者は藤本晴美。ジュネが獄中にあったとき、当時のフランスを代表する知識人、サルトルらが救出運動を展開していた。日本の作家では三島由紀夫もジュネを高くかっていたが、三島の評価はジュネの「美意識の透明」「美に対する純粋な向き合うこと」にあったと記憶している。今回藤本の文を読み改めてジュネの感性の瑞々しさを知った。ジュネの死の前年まで交流を重ねた藤本の照会文はナミの紹介ではない。ジュネの文学的感性をこの1000字ほどの毎日のコーナーで縦横に昇華している。藤本はジュネと自殺未遂した3カ月後の1967年夏に知り会った。訪日したジュネについて書いている。ジュネは自殺未遂から立ち上がる再生の営みを日本に求めたのだ。日本での経験が、「私をユダヤーキリスト教道徳から解放してくれる」(『恋する虜』(人文書院))と書いていることにもふれている。日本語の響きに敏感であったエピソードは詩人のジュネを語るのに興味深い。ジュネは「「なぜ」という好奇心でどんなことにも深く純粋に向き合い」と藤本と書く。85年に出会ったとき、面白い小説を書いていると語ったという。ベットに臥せながら語ったが、1時間以上も語り続けてそのまま眠り込んだというエピソードが記されている。純粋無垢な子どものようなジュネをシンボリックに表現する藤本の渾身の哀悼のことばかもしれない。
朝日は酒井法子『贖罪』(朝日新聞出版、1260円)を佐々木俊尚の書評で取り上げている。「陰影伴う昭和のアイドル」との見出しで惹きつけられて読むと、いまのアイドルとの違いを酒井の著が浮き立たせていることがわかる。それは昭和という時代に懸命にかけぬけた酒井の真摯な生き方が読み取れるからだ。「いまの時代のアイドルは真摯でないのか」というとそうではない。真摯なのだが、昭和のアイドルには陰影が伴うのである。それはなぜか。そのことには踏み込んでの書評ではないが、酒井のこの書はベストセラーでよく売れているという。酒井はいまも「アイドル」の影を引きずり再生しようとしている。
2010年11月21日
日曜新聞紙読書欄簡単レビュー:川瀬俊治
コーラ・ダイアモンド、スタンリー・カヴェル他『〈動物といのち〉と哲学』(春秋社、2800円)-読売ーは、人間とヒト以外の動物との関係をめぐる哲学的議論の「現時点でもっとも深く精緻」(評者今福龍太)な討論が収録されていう。動物を含む道徳的共同体が思考の拠点になるのかーとの問いを追求をダイアモンドがしている。アメリカ哲学界の巨人と称されるスタンリー・カヴェルは人間という動物が置かれているのは、「露わさ」という概念をあげる。ダイアモンドは先鋭的菜食主義者、カゼルは非菜食主義者だそうだ。この本には深く哲学的で実践的種子があると評者は最後に書いている。
2010年11月 7日
日曜新聞紙読書欄簡単レビュー:川瀬俊治
角岡伸彦『カニは横に歩く』(講談社、2200円)ー読売ーは、脳性マヒ者が結成した障害者解放運動青い芝の会の活動を描いたドキュメントである。著者は長年ボランティアとして活動にかかわってきた。青い芝の会は何を目指したのか。バスを占領したり、事務所に乱入して書類を引き裂いたりした。評者河合香織はこうした事実を紹介しながら「人に迷惑をかけてはいけない」という社会のルールに真っ向から反対し、他人の手を煩わすことなく生きることを信念とした原点をあげている。これはすべてを否定されてきたことへの反発から生まれたものであり、「あるがまま」を容認する徹底した自己肯定感がそこにある。健常者の顔色を伺うことを、制度も常識も差別も。その自由の希求をどう読者は判断するのか。たしかに健常者は障害者の自己主張を遠ざける心性を底流でもっている。そのことに正面から問いかけたのが障害者解放運動である。運動によるつきつけがあってこそ気づくという後発性を健常者はかかえもつ。遠慮することなく語り行動した青い芝の運動は根源手的は障害者解放を目指したラディカルにして根(プリ)をもつ運動なのだ。「苦しいほどの自由と生への希求」と河合は書いている。
杉山二郎『仏像が来た道』(青土社、2200円)-読売ーは、仏像が来た道をわかりやすく明快に書いた本と評者前田耕作は書いているが、何よりも仏は造作することも長短を測ることもできないーとされながら忽然と釈尊入滅後あらわれた。そのなぞを杉山は信仰の昴(たか)と帰結させる大胆さとわかりやすさがこの本にある。最近も私は薬師寺の日光菩薩、月光菩薩を拝観した。かつて黄金に光っていたものが長年の歳月で金箔の下の銅があらわれ、その黒光りは荘厳さを示してあまりある。日本人の体型ではない。絹の道をたどやってきた仏像造作が生み出した理想的信仰像かもしれない。なぜ身体は長く造詣されるのか。キリストも十字架に磔(はりつけ)られた像が教会内にましますが、これも実際の身体より長く描かれている。十字架がその長さを強調する。信仰での造作はなぜ長くなされるのか。人々が見上げるからだ。信仰ゆえに。そして地にはない。地上に立つのではなく、われわれ衆生、信徒の目線の上にかならず像がある。こうした問いはこの本にはないが、なぜ仏像が作られたかのヒントにも答えてくれるに違いない。
チャールズ・テイラー『自我の源泉 近代的アイデンティティの形成』(名古屋大学出版会、9925円)ー朝日ーは、近代的アイテンティティに3つの特徴を示す。1つは内面性の感覚、2つは日常生活の肯定、3つは自然についての表現主義的な考え方である。テイラーは現代を支配するリべラリズムや「自然主義」の思想では、自我や主体、人格が「善」が切り離され、われわれの「善き生」は欲望、傾向から独立したものではなくなりバラバラのものになるー評者姜尚中はもとめて本書を紹介している。これを対象と距離をおく「道具的抑制」というもので自己と他者をも手段の地位に貶めるというのだ。テイラーは「善をなすこと」でのアイテンティティの可能性をとく。その善とはどのようなものなのか。またどうした実践を求められるのか。こうした問いは本書を読まないとわからない。しかし姜が解説するように「正しい行いという狭苦しい道徳から解き放たれ、自分の尊厳や価値ある生き方や人生の意味と生き生きした関連を見出すことができることになる」と書かれていることに興味を覚える。高価な本で手にだすこがはばかれるが何とか読んでみたい本だ。
同じく朝日に紹介された観阿弥の出身をめぐる畢竟の遺作、表章『昭和の創作「伊賀観世系譜」 梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社、2940円)は梅原猛への伊賀説への反論である。梅原は『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』(角川学芸出版)で伊賀説の根拠として「伊賀観阿弥系譜」の一群の資料を全面的に肯定したものだ。これに表は詳細ば分析を通じて伊賀説を否定している。この書の特徴は梅原説批判に終わるのではない。批判のための批判ではなく「系譜」が昭和の能楽研究のエッセンスに基づいて作られた興味ある資料として照射していることだ。だから批判のための批判ではむ、超越した梅原説批判なのだ。著者は刊行を待たず急逝された。「まさに学者の命をかけた「返答」だったのである」と評者田中貴子は書いている。
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