川瀬俊治の「森羅万象」

2011年1月25日

メデイア・ウオッチング 地域主権論議で「蚊帳の外」の外国人参政権問題:川瀬w俊治

 地方の時代といわれるが、人気の知事も市長も一度たりとて口に出さず、そしてメディアも決してふれないことがある。定住外国人の参政権問題である。

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2010年12月31日

メディア・ウッチング「混迷する菅政権の分析」が今年の論説の主流;川瀬俊治


 30日の「京都新聞」では共同通信解説委員が今年の政治動向を分析する記事を書いていたが、簡単に言えば、菅―小沢対決は政治の権力闘争であるとの見方だ。一連の民主党のゴタゴタは権力闘争以外にないーという。

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2010年12月15日

メデイア・ウオッチング 80年前の最大の「コリアタウン」-奈良での土木工事で:川瀬俊治

 奈良県の王寺町を中心にした亀の瀬の地すべり改修工事は、1932年の1年がかりで続けられた。

 延べ労働者の数は旧王寺町史に載っていたが、たしか30万人を越えていたとある(1969年刊行の『王寺町史』407ページに延べ人数3566971人とある。「工事のため朝鮮人を含む数千人の労働者が来住したため学校を急増した。小学校を1、2両学年に2学級を増設」とある)。

 
 家族連れでの就労などで児童、生徒の学校での対応など大変だったと書いてあった。労働者の多くは朝鮮人であった。

 当時の在日朝鮮人が加わった運動である全協の機関紙が周辺で発行されていたというから、奈良で当時最大の「コリアタウン」であったわけだ。工事が終わると人々はほかの工事現場に移り、「コリアタウン」は消えてしまう。

 当時の新聞を見ると、これがひどい。差別用語を多用した朝鮮人関連報道が続出している。これに一般の読者はどうした感情をいだいたか。連日差別語を見出しにした報道。そして工事現場での事故多発。そこには何が心に形作られたか。差別する意識を根底に醸成したことは否めない。

 これら報道の蓄積を新聞は本当に反省しているのか。新聞を読みながらつくづく思う。白日のもとにその歴史的事実を出して、検証するなどやっていないし、同様のことをしてきた日本の公共機関(裁判所、行政など)はほうかむりしている。これではネットの朝鮮人差別流布も下地があると受け止めざるをえない。

 ものごとの事態には歴史的原因がある。その歴史性に背を向けて、いま出てきた現象だけ改める処置をしても解熱剤投与などの応急的処方箋をほどこしたことしかならない。

 ではなぜ応急的で終始しているのか。これの論及が大きな課題なのだ。

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2010年12月 7日

メデイア・ウオッチング 号外にみる日韓の違い;川瀬俊治

 韓国に行って友人たちが驚いていたのは「23日の北の攻撃で号外が日本で出たの?」という意外な反応だった。

 韓国では号外はめったなことでは出ない。戦後の軍事独裁時代を知る先輩は朴正煕大統領暗殺事件のときには号外が出たと記憶の紐を繰り寄せてくれた。これは大変な事件だから号外も当然だろう。それと大統領選挙結果だそうだ。それ以外にあまり記憶がないという。

だから日本側の反応に驚いたようだ。「今回の事態で日本側はかなり深刻な事態と受け取っているようだ」とあるジャーナリストが感想を述べたのは、ある意味で仕方がないのかもしれない。

しかし日本では号外がよく出る。慣れっこになっている。新聞社の宣伝の部分もあると受ける読者も思っている。だから号外が出たから大変なことだとは思っていない部分もある。最近はニュースのテロップがやたらに流れる。これも慣れっこになっている。

号外をめぐる日韓ギャップはどこに原因があるのか。

ただ今回の事態は「たいしたこととは思っていない」では済まされない状況だ。どんどんときな臭い方向に進んでいく。太陽政策をとらないと、太陽政策でかかる何十倍もの国防費の支出を韓国は現在余儀なくされている。この皮肉さを韓国の人々は3年前の大統領選挙で予想していたのだろうか。楽観的なものの見方をしがちな筆者だが、韓国の軍事演習、日米と韓オブザーバーの軍事演習はかつてない規模だけに、金大中―盧武鉉時代がはるか遠い時代のように思われる。

 


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2010年11月 2日

メディア・ウオッチング なぜ大阪・大手紙は沈黙したのかー東京新聞が報じたKさん逮捕:川瀬俊治

ドキュメンタリストKさんが8月22日に微罪逮捕され11日間勾留された事件はすでにJNETで何度も書いた。さらに政党機関紙2紙にも9月、10月の紙面で紹介報告した。ところがこの逮捕の不当さを何とか訴えてほしいと願いアプローチした在版の大手紙は一切沈黙、なんと東京新聞が10月19日朝刊の特報で報じたのだ。どうして大阪の新聞が伝えず、遠く離れた東京の新聞が報じたのか。

 

 

 結果的には「職場放棄」ではないのかーと、大阪・大手紙を批判することはたやすいことだ。きつい表現かもしれないが、そのとおりだからだ。しかし、それでは何もことが進まない。問題はなぜ沈黙したのかである。

 

 3つの理由がある。1つは記者が記事化するにあたらないと判断したことだ。2つ目は現場の記者が記事化したがデスク段階ではねられた可能性があること。3つ目は記事化しても記事にふさわしい紙面がないことだ。「ふさわしい」とは掲載にみあう紙面がないことだ。

 

 この3つの理由のうち最初の2つは外部の人間にはわからないので、あれこれ詮索しても仕方がない。しかし3番目の理由はわれわれ読者にも関係しているから検証できるテーマでもある。

 

 

 記者はその新聞の紙面の性格に知悉して記事を書く。家庭・生活面は家庭の話題を、文化面は文化の話題をーというように面立てにより記事が書かれる。それではKさんの微罪逮捕はどうなのか。

 

 

記事を載せる社会面があるではないかということになる。ところが結果的に社会面に報じる内容ではないと見られたから記事が掲載されなかったのだ。ここで問われるのは直接的には記事化をはかる人々の人権感覚であり、いま起こっている社会、政治状況への鋭い監視の眼である。ジャーナリストとしては当然のことだろう。生命線でもある。

 

 

結果的に掲載されなかったのは、逆の指摘になるが、人権上でも問題ないとみ、また、いまの社会、政治状況が生み出す不条理への疑問もこの事件から浮かび上がらないと判断したからだろう。本当にそうなのか。

 

 

微罪で逮捕し拘束することが正しいのか。容疑内容と関係ないコンピューターのハードディスクを何台も押収することが「不当」ではないのかーと、ジャーナリストである記者は反芻したのだろうか。「まるはだかの市民」に手が及んだエイペツクがらみの捜査・弾圧と見なかったのか。微罪逮捕で大阪では長期勾留されている人がいることに目をやれば、Kさん逮捕の深層へも迫れるのではないか。

 

 東京新聞は家宅捜査された新聞発行の事務所の模様も写真提供を受けて掲載したし、Kさんの証言を紙面でさいた構成をした。それは新聞社の報道姿勢からくるものだ。人権感覚を研ぎ澄まし、社会、政治状況を批判的に見る紙面構成を組んできたから敏感に反応した。

 

では、なぜ大阪の大手紙はその紙面立てができないのか。ここで無理難題を言っているのではない。できない紙面立てになっていることへの落胆感が襲う。記者が感じることがまず最初だが、微罪逮捕、拘束の不当性を反映させる紙面立てとは無縁になりつつあるから、記事が零れ落ちる。紙面審査とか、識者の自社メデイアに対する「もの申す」コーナーの「ぬるさ」の根っこは、在野性の徹底性が脆弱化していることにあるのではないか。

 

 

改革が叫ばれる現代で最も改革が叫ばれるのが新聞の沈黙を余儀なくされる紙面だろう。現代社会に埋没してはいけないし、してはいないのだが、そこを見逃す病は「大手新聞の最大の弱点」、すなわち権威主義だろう。それが基底で羅針盤の針を振り、日々のニュースが無自覚に種わけされていくことが何とも恐ろしい。

 

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