伽耶雅人の「奈良の奥山から」

2011年1月17日

ビーズ (パミールのはてに) vol.35 伽耶雅人

二人は「救急袋」を背に再び走って村に降りた。
殆どが焼け焦げ、焼け爛れて死んでいた。肉の焼けた匂い。
だが、生きている者もいた。ナパームの通り筋から離れたところにいた者だろう。
苦しんでいる者を見ると、本能的、反射的に医者の職業意識が戻って来た。
すぐ手当てをしなければならない。まず、動ける者を集めることにした。
動ける者に頼んで、毛布や絨毯を担架にして、動けない者を安全な場所に移した。
担架と言っても、実際はボロ毛布や絨毯だけだから、地橇のように引き摺っていった。
安全な場所に到着すると、まずきれいな水で患部を洗浄し、冷やす。しかし、火傷のひどい者は毛布や襤褸切れで包んで、体温を下げさせないようにしなければならない。
リナが袋に詰め込んだ薬剤は消毒薬、鎮痛・消炎剤、抗菌剤、外科手術道具、包帯などだった。
ビーズは「リナはなかなか気転の利く女房だ」と感心した。彼は必死で治療をしているうちに自分の中で仕返しの心が殆どなくなっているのに気付いた。
「命をひとつでも救うことが私の生きる証だ」と。心が温かいもので充たされた。
なぜか時間の感覚がなくなっていた。「ビーズ、私はもう往くけど、頑張ってね。リナを大切にしてね」アンナの声が聞こえたような気がした。だが、暫くして気がつけば血みどろの現実に戻っていた。
真剣な顔で患者に包帯を巻いているリナを見ながら、ビーズはにこっと微笑んだ。
リナはビーズのにこにこ顔を見ながら「ビーズも角が取れて本当に円満になったわ。いつも患者に間の抜けた冗談ばかり言ってるけど、あれでビーズは『ふれあい療法』だと言うんだから、可愛いな。でも、立派だわ」と思った。「これからビーズの子供をたくさん産んで、みんなでしっかり頑張ってこの国を建てなおさなきゃね。ここしばらくは大変だけど、楽しみだわ。できれば、私は山羊を飼いたい。ビーズにおいしいチーズを作ってあげたいな」と。

ビーズは戦災の凄まじさ、人々の悲痛を克明に記録した画像と反戦アピールをソグドの末裔に託してマリオに送り、医薬品、食糧、それに医師団の派遣も要請した。
数日後、医師団以外は全て叶えられた。残念ながら戦争危険地域への医師団派遣は不可だった。「仕方がない。自分で人を集め、人を育てていこう。そして、平和のためのアピールを続けよう」ビーズは寝る間も惜しんで活動を続けた。

1997年6月、タジクの内戦は国際社会の仲介による民族和解政権の樹立により一応の集結を迎えた。これで空爆の恐怖もようやく薄らいだ。
時の経過とともにビーズは現地語にも習熟し、若者の医学指導にも熱を入れた。リナを伴い、医薬品を馬の背に乗せてどこまでも往診に出るようになった。往診先は一様に貧しく、まさに「食うや食わず」の状態だった。二人は人々の自立を願った。そして、行く先々で「銃を鍬に換え、大地に戻れ」を訴えた。人々は荒地に水を引き、耕し、鶏や羊を飼い始めた。新たに子供も生まれ、村がだんだんと村らしくなってきた。

それから更に数年が経った。2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こった。これを境に世の中は大きく変わった。
アメリカはアフガンを取り巻く中央アジアの小国群に空軍を派遣し、嘗ての盟友タリバン、アルカイダを叩くと同時に、このあたりの政治地図を大きく塗り変えてしまった。
中央アジアの小国群はイスラム原理主義の浸透に手を焼いていたので、アメリカの軍事介入を歓迎した。
ロシアは中央アジアでの覇権を一時、アメリカに預けた。当時のアメリカの勢いには抗い難かった。同時にロシアはアメリカの動きに便乗した。この機会をとらえ、チェチェン共和国の独立運動に対する攻撃を強化した。アメリカ、ロシアそれぞれがイスラム過激派に対する戦いとして、互いが互いの軍事行動に口を挟まないという暗黙の了解を成立させた。
こういう流れの中、タジクの反政府ゲリラは国の主要部ではロシア軍と政府軍に押さえ込まれ、東部の高原地帯に身を潜めることになった。が、火種は消えたわけではない。
2010年9月21日付けの朝日新聞記事によれば、「中央アジア・タジキスタン中部のラシト地区で19日、国防省の軍兵士の車列が武装集団の襲撃を受け、兵士ら23人が死亡した。国防省は、襲撃には1990年代からの反政府勢力の元野戦司令官が関与していると指摘し、地域の不安定化を狙ったテロ行為だと主張した。武装集団には隣接するアフガニスタンのほか、パキスタンやロシア南部チェチェン共和国からの雇い兵がいるとされる」となっている。
因みに、これは同紙モスクワ支局からの記事、つまりロシア政府筋の発信記事である。

ビーズのところには引きも切らず患者たちがやって来る。
往診にも行く。パミールの空は海のように広い。何もあの頃と変わっていない。
ただ、ひとつ、リナとの間に二人のかわいい息子が出来たことを除けば。
2010年10月完


P/S:本編を思い立って(素描してから)既に10年が経った。
その後、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、そしてアフガン戦争。タリバンやアルカイダが報道を賑わし、一時タジキスタンを含む中央アジアの国々もクローズアップされた。
一方、それに引き続き起こったイラク戦争により、世界の目は中東に移っていった。
さらに、リストラの嵐、デフレ不況がそれに続いた。最近ではリーマンショック後の世界経済恐慌でタジキスタンなどという国名は誰ももう覚えていないかもしれない。
だが、この世の片隅にはビーズのように大国の思惑や動きに左右されず、弱く貧しい人々を少しでも救おうとしている者がいることを心の片隅に置いてもらえば、これほど嬉しいことはない。


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2011年1月14日

ビーズ (パミールのはてに) vol.34 伽耶雅人

武装ゲリラの一隊が村にやって来た。一様に髭面で目つきが鋭かった。しがし、どこかで血が繋がっているのか、村人は彼らを喜んで迎え入れ、進んで食べ物や飲み物を提供した。髭面の兵士たちは広場にアメリカ製の小型ミサイルを並べ、どのように敵機を撃ち落すかを得意そうに説明し、図解さえした。村人は初めて見るハイテク兵器に度肝を抜かれ、一目惚れした。
ビーズはこの様子を見て、「矛盾」という言葉を思い出した。「楚の国の商人が矛と盾を売り歩いた。この矛はどんなものでも貫く。この盾はどんなものも防ぐと自慢した。その両方をぶつけるとどうなるかと問われ、彼は答えることが出来なかった」そうだ。これが矛盾の語源というが、ビーズは思った。「矛と盾は無限に連鎖反応を起こす、癌と同じだ、その先は滅亡しかない、矛と盾はこの世から除去せねばならない、、」
気がつけば、ビーズは並べられた小型ミサイルのすぐそばに来ていた。
ミサイルの実物はと言えば、電子機器が満載だというが、その操作は簡単なコンピュータゲームを連想させた。問題は、武装ゲリラがこのようにして純朴な村人の心を掻き立て、兵を募り、戦線を拡大させようとしていることだ。ビーズは暗い気持ちで村人の浮かれ姿を眺めていた。リナにはそれが痛いほど分かり辛かった。

因みに「スティンガー」とは英語で「昆虫の毒針、蛇の毒牙」という意味。
まさに小型ながら毒針となって、大型の航空機を確実に捉え、撃墜する。
当時多用されたFIM-92 スティンガーミサイルの誘導には赤外線・紫外線目標捜索装置(シーカー)が用いられている。このシーカーは赤外線画像をデジタル画像として処理するため、フレア(航空機がミサイルの追尾から逃れるため空中に放出する欺瞞装置、おとり)に対しての対抗性能が極めて高い。

ミサイルには安全装置がついており、それを解除するにはコードを入れる必要がある。つまり、ゲリラの隊員以外には操作が出来ない仕組みになっていた。黒髭の男がリナに「お前に内緒でコードを教えようか」とモーションをかけてきたが、リナは「結構」と一蹴した。
リナは夕食を済ますとしっかり戸締りをして、「今晩は早く寝ましょうね」とビーズをベッドに誘った。彼女はビーズに髭面たちの粘っこい目からわが身を守って欲しかった。
武装ゲリラたちは夜更けまで広場で村人とともに男ダンスや手拍子で宴会を開いていたが、朝早く村から立ち去った。数人の村人も彼らとともに消えていた。リナは髭面たちがいなくなってほっとしたが、消えた村人を思うと複雑な気持ちだった。

アフガンはタジクの南側の国で、タジクと1300kmの国境で接している。
前述の如く、1979年からのアフガン戦争ではソ連は親ソ政権を護るためにアフガンに大軍を送り込んだ。ところが、アメリカ、パキスタンなどが後押しする反政府ゲリラの抵抗に遭い、1989年、アフガンから敗退した。このことがソビエト社会主義体制を崩壊させる引き金ともなった。
タジクの内戦も「ゲリラ戦」かつ「大国の介入や支援」という点でソ連=アフガン戦争に通ずるものがある。タジクでもパキスタン、アフガン経由で入ってくるアメリカ製の携帯型兵器は航空戦力を持たない武装ゲリラにとって最強の武器となった。ロシア軍側の撃墜された攻撃ヘリ、航空機の殆んどはスティンガー・ミサイルによるものだった。

タジク反政府ゲリラの執拗な反撃に対抗してロシア軍は空爆域をさらに拡大し、ナパーム弾も使い始めた。ロシア軍は難民の群れも恐れた。ロシア兵には難民とゲリラの区別がつかない。ロシア空軍機は時として、自衛のため難民の群れにナパーム弾を落とす。一瞬に広がるオレンジ色の炎は全てを焼き尽くす。生存者はゼロに近く、幸いにして生存した者も火傷に苦しむ。

往診からの帰路、ビーズとリナは強盗や軍隊を避けて山道を進んだ。
最近は政府軍と強盗の見分けが付かないほど状況が混乱して来た。政府軍の名を借りる強盗もいれば、強盗を働く政府軍の兵もいる。難民も自衛のため武器を持つ。
難民が武器を持つがゆえに、攻撃側は難民に対する殺戮や略奪を「武装テロリストとの戦い」として正当化する。殺しあいが際限なく続く。

ビーズとリナの村・パセルカはあと数キロの距離にあった。山中から見下ろす村の家々は白い壁が夕陽に映えていた。夕餉の煙がたなびき、そこはのどかな春の夕暮れだった。
三機の大型の飛行機がビーズとリナの頭上を飛び越え、村を襲った。
一斉にナパーム弾をばら撒いた。村のある谷間を下から上にオレンジの炎が走った。
もの凄い勢いで、巨大な赤蛇のように地をなめて行く。
ナパームの炎がこんなに大規模なものとは想像もつかなかった。
目の前ですべてが焼き尽くされた。山の斜面のテント村も焼かれた。
悲鳴は聞こえず、轟音だけが谷間に響いた。
飛行機は谷を焼き尽くすと、そ知らぬ顔をして、その場から飛び去ってしまった。

リナは力を失って、ビーズにもたれ掛かった。ビーズはリナを抱きとめた。
リナの柔らかい肌に鳥毛が立ち、体が小刻みに震えている。
彼女は泣いた。ビーズはリナを抱いたまま、しばらく茫然としていた。
村は燃えていた。
ビーズは患者のことが気になって、山の斜面につくったビーズ病院に急いだ。
テントは焼け、患者も医者見習いも黒こげになっていた。
敵は傷病患者のテント村も見逃さなかった。
医者になりたいと一生懸命勉強したシャリー、アメルも死んでいた。
ダリサ、レイラの死骸は黒こげになり、抱き上げるとカサカサと乾いた音を立てた。
「これが、元気だったあいつらの遺骸か。こんなにボロボロになってしまって」と思うとあまりにも可哀想で、涙が止まらなかった。
ロシアやタリバンは勿論のこと、戦争を煽ったアメリカにも強い憤りを感じた。
こいつらは人を殺してまで、他人の土地を支配したいのか。弱い者は幾ら殺しても構わないのか。奴らは自分や自分の家族が同じ目に遭わされても仕方ないと諦めるのか。
畜生、原爆でも作ってモスクワとワシントンに仕掛けてやる。それが出来なければ、政府の高官たちをミサイルで吹っ飛ばしてやる。それぐらい俺にだって出来る。
ビーズの心は憎しみに燃えた。仕返ししか考えられなかった。
「皆死んでしまった。もう我慢の限界だ。死ぬ覚悟でロシアにもアメリカにも目に物を見せてやる。俺らだってもう少し早く帰っていたら、今ごろは真っ黒こげだった」
「ビーズ、やめて。あなたが仕返しをしたら、相手の遺族はまた仕返しをするわ。
それより、生きて訴えましょう。戦争をしてはならないって。人を殺してはいけないって。この姿をすべて写真とビデオに撮ってちょうだい。マリオに送るのよ。それから、ひとりでも多くの人を救いましょうよ。ほら、あなた、斜面に洞穴を掘って、そこにお薬を入れてるでしょう。きっと無事よ。あれを使って、火傷や怪我をした人達を助けましょう。こんなことを言ったら、あなた笑うかもしれないけど、あなたと私が生き残ったのは神さまの思し召しだと思うの。人を救いなさいって」
「君は口惜しくないのか。みんな殺されて、コゲ屑のようになっているのに」
「くやしい。でも仕返しなど、自分には出来ない」
「ずれるなあ。リナ、おぼこ過ぎるよ。それはともかく、洞穴の様子を見てみようか」
彼は「今度こそはリナのペースに乗せられるものか」と思いながらも、洞穴の様子が気にかかった。息は切れるが必死で走り、洞穴に着いた。
入り口付近はやはり焼け焦げていた。油の焦げた匂いを気にしながら、二人は中に入った。奥の倉庫は無事だった。食料も医薬品もそのままだった。
ビーズは「もし病人をこの中に導き入れる暇があったら、多くを救うことが出来たのに」と口惜しがった。嫌がっても、患者は洞穴の中に入れておくべきだったと後悔した。

リナは袋に食品と医薬品を詰め込み「はい、救急袋、これはあなたが持って」と二つの袋をビーズに差し出し、自分用にも重い袋を二つ作って「さあ、村に降りましょう。爆弾から遠いところでは人は生きているはずよ。早く行ってあげなくちゃ」とビーズを急かす。

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2011年1月12日

ビーズ (パミールのはてに) vol.33 伽耶雅人

皆、髭面で恐ろしそうな顔をしていたが、中味は注射さえも怖がる普通の人間だった。
麻酔注射を打ち、消毒して、切開して銃弾を抜いたり、縫合したり、骨折には添え木をしたり、包帯を巻いたり、薬をつけたり、あれこれしているうちに3日間の逗留となった。最後にと、薬品の説明をして、当座の必要量を渡すことにした。「もしもっと必要なら、パセルカという私の村に人をよこしてくれ」
コマンジール・イズミールは晩餐を用意し、リナとビーズを上座に座らせた。
「ドクトル・ビーズ、ありがとう。この先、わしらと同行してほしいが、、と言ってもそれは無理だろう。わしの部下でこれはと思う者が二人ほどいるから、それをお前さんたちのガード兼見習いにしてくれれば、とても有り難いが」
「喜んで引き受ける」
「よし、決まった。ヤムス、イゴル、お前たちはこれからドクトル・ビーズの弟子だ。さあ、乾杯だ。ところで、ドクトル・ビーズ、あんたにはお礼をしたい。わしらに出来ることは何でもする。あんたの希望を言ってくれ」

ビーズはイズミールに「ここを立ち退いて欲しい」と申し出た。
「コマンジール、あなたはセレスコ村の空爆をご覧になりましたか」
「話は聞いたが、わし自身は見ていない」
「私は見た。一方的な殺戮だった。あなたを守るために多くの村人が殺されたというのにあなた自身はそれを見ていなかったというのですか」
「わしはセレスコ村に一分隊を派遣して、支援物資を送りつけたが、、そうか、多くの村人は投降せず、その分隊を庇って一方的に攻撃されたというのだな」
「その通りです」
「君はわしさえいなくなればロシア軍の空爆はなくなるというのか」
「少なくとも、空爆の理由はなくなります」
「そうか、よく分かった。ひとつ誤解しないで欲しいが、わしらは原理主義者タリバンでも、山賊でもない。だが、ジハード(聖戦)は昔から受け継がれた我々の責務だ。その通信装置でビシケクの協力者と話ができるかな」
「すぐにも出来ます。但し、話をしたら、装置を捨て、急いでその場から離れなければならなりませんが、、」
「そんなことはわしのほうがよう知っとるわい。ドクトル・ビーズ、お前さんは奥さんと一緒に今すぐここを離れてくれ。通信装置はもらう。代わりにあんたらに護衛をつけてパセルカ村に送り届けよう。出来るだけ多くの食料も持たせよう」有無を言わせない勢いだった。「ヤムス、イゴル、アシド、テンギス、急いで用意をしろ!」
4人の若者は荷物をまとめると、ビーズとリナの前後を固めつつイズミールのもとを去って行った。

ビーズたちを見送ると、イズミールは一人で夜の荒野に出て、ビシケク(キルギスの首都)にいるマリオに回線を繋いだ。
「ドクトル・ビーズの友人のマリオだね。わしはロシア軍とタジク政府軍に追われているイズミールという者だ。ビーズからこの衛星電話を貰い受けて君と話している。わしは今、パミールの奥深い谷間にいる。マリオ、わしらの主張を電波を通じてロシアや世界に伝えてくれないか」
「あなたは本当にコマンジール・イズミールですか。もしそうなら、そして、もしコマンジールの声をライブで流せるなら、それは大スクープ、願ってもない話です。ただ、世界に流すには準備に30分ほどかかるので、一旦、電源を切って、場所を変えて、再度コンタクトしてほしいのですが」
「私が本物かどうかは当局の反応を見れば分かるはずだ。周波数分析装置とかで声紋を照合してくれるよ。とにかく30分後に電話をかけなおす」
イズミールは電源を切って、あたりをぶらついた。月面のような荒地だった。そしてちょうど30分後、再度電源を入れた。マリオはスタンバイOKを告げた。イズミールはマイクに語りかけた。
「わしはロシア軍やタジク政府軍から指名手配を受けているコマンジール・イズミールだ。タジク、ロシア、アメリカ、アフガンの人々、世界中の人々に話をしたい。
我がタジキスタンは旧ソ連15カ国の中で最貧国だ。ただでさえ国中が食うや食わずの極貧、にも拘らず旧共産党の利権集団は国の財産を我が物にしている。古い支配体制をあくまで維持しようとしている。今、タジクは新しく生まれ変わらねばならない。そのためには、まず利権集団を排し、旧体制を覆し、国を民主化せねばならない。わしらはテロリストでも強盗でもない。タジクの人々の生活と権利を守るために戦っている。この世の不条理と戦っている。
ロシア軍と政府軍はわしをイスラム原理主義者、爆弾テログループの首領、麻薬王と称しているようだが、全くの謀略だ。確かにわしはイスラム教徒だが、狂信者タリバンではない。
数日前、ロシア空軍はわしを狙ってセレスコ村を襲撃した。そこにおったのは貧しい村民とわしが村に送り込んだ若者たちだった。村民は支援物資を運んできた若者を庇って、投降勧告に応じず村に留まった。結果、村は空爆を受けて壊滅した。
その様子をドクトル・ビーズがビデオ撮影したから、遠からず画像がそちらに届くだろう。
おそらく、この通話を察知してそろそろロシアの攻撃ジェットがここを目指して飛んでくるだろう。お願いする。ロシア、アメリカ、タリバンは直接にも間接にも我が国から手を引いてくれ。今までどれだけの人が傷つき、飢え、泣いたか。あなたは想像できるか。戦争はもうこりごりだ」
マリオは「よく分った。コマンジール・イズミール、今すぐ、逃げてくれ。きっと、すぐにもジェット機の攻撃が始まる。今すぐ、この通話を中断して電源を切ってくれ」と叫んだ。
「いや、続ける。皆、聞いてくれ。わしがこの世にいることで多くの村々が襲撃され、多くの人々が殺されるのなら、わしはこの身を捨てて、殺戮を止めさせたい。ロシアのハゲタカよ、わしが憎いなら、わしを殺せ。その代わり、無意味な人殺しは止めてくれ。
わしはわしのために犠牲になった多くの人々のために祈りたい。わしはこの地に殺しあいで泣く者のいない国をつくりたい。子を泣かせたくない。孫を泣かせたくない。わしが死んでも、わしの意志を継いでくれる者が多く多く現れてくることを願う。一日も早くタジクに平和がもたらされんことを祈る。皆に神のご加護を!」
轟音とともに2機のジェット戦闘機が縦列で飛来し、空対地ミサイルを撃ち込んだ。イズミールと通信装置は粉微塵となり、音声もその時点で停止した。
マリオはマイクを持つ手で十字を切った。

春になって山が緑づいた頃、タジクの西と南で戦争が再開されたという噂が流れた。
イズミールの悲願に反して事態は悪いほうに動き出した。タジクの西は開けた平野部で、そこには首都ドシャンベがある。ドシャンベで爆弾テロが同時に多発した。タジクの政府高官や政府軍、ロシア軍兵などが対象となった。
車に爆弾が仕掛けられたり、道路に遠隔操作の地雷が仕掛けられた。爆弾を抱いてカミカゼ特攻をする者もいた。多くの人が集まるバザール(青空市場)でも時限爆弾が爆発した。
このような反社会的なテロ行為はテレビなどで大々的に報道された。
ばらばらになった被害者の体が何度もテレビ画面に流された。
それを待ち兼ねていたように、政府軍は大攻勢を開始した。戦車や装甲車を各方面に急行させ、反政府ゲリラの拠点を押さえていった。ロシア軍も「CIS平和維持軍の基地防衛」を目的とした空爆を開始した。ロシアの伝統的な戦法「攻撃こそ最大の防御」を実践した。
タジクは、南の大河・アムダリア川を挟んでアフガニスタンと対面する。ロシア空軍は「アフガンからのタリバン侵略を防ぐため」として、最初のうちは南部アムダリア川方面に爆撃を集中させていたが、その範囲は時を追うごとにタジク全土に広がっていった。
その結果、国外脱出をはかる難民の群れは日を追って増えていった。
去年より事態は先鋭化してきた。去年はロシア軍の空爆はこれほど激しくなかった。
一方、武装イスラムの闘いぶりも去年とは変わってきた。パキスタン、アフガニスタン経由で入って来るハイテク兵器(携帯型スティンガー・ミサイルなど)の威力は凄まじく、ロシア軍の攻撃ヘリはハイテク兵器で容赦なく撃ち落とされた。

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2011年1月10日

ビーズ (パミールのはてに) vol.32 伽耶雅人

マローズは時々やって来て、リナに「お土産」の小麦粉、鶏などを手渡し、弟たちの元気な顔を見て帰って行く。
マローズとはロシア語のジェッド・マローズ(サンタクロース)のこと。彼は物資の「担ぎ屋」で凌ぎを得ているので、皆からそう呼ばれる。彼自身も好んでマローズを通している。彼は弟たちが「医者見習い」をしているのが嬉しくてしようがない。
「シャリー、アメル、二人ともしっかり勉強するんだぞ。このチョコは皆と分けて食べろ。また来るからな。元気でいろよ」
マローズの弟や孤児たちは「お医者さんになってビーズのように人を救いたい。お医者さんになってリナのような美人を嫁にしたい」という。
ビーズは「こいつら、なかなか正直だ」と思った。
リナは彼らを見ていると、死んだ弟のビーデルを見ているような気がして、服を洗ってやったり、ご馳走を作ったり、話を聞いてやったりした。女の子たちとは一緒に糸を紡いだり、編み物もした。
リナは最近、ビーズが村人達とにこにこ顔で話しているのをよく目にするようになった。
彼女にはそれがとても嬉しかった。小枝にとまる小鳥の鳴声を聞きながら、そろそろ春が来るなと思った。ビーズは往診の依頼を受けると、どこに行くにもリナを同行させた。
リナは往診の道々ビーズと色々な話をした。彼女は「どんな宗教も、一番大事なことは人の心を救うことだと思う。私の母はいつも『この世に欲と未練を持ってはいけない。それから解放されることが、心を救う唯一の道』だと言っていた。でも、それはたいへん難しいことだわ」という。「欲と未練を捨てる」ということには何か共鳴するものがある。
ただ、ビーズはリナのいない世の中で生きるのはもう厭だった。だから、いつも同行させた。それも未練というのだろうか。

道中、頭上に仰ぐパミールの連峰は純白で、冷たく気高かった。夕方には山が黒いシルエットになり、その上に巨大な空が立つ。太陽が雲の切れ目から太い光の束を投げ落とす。
それはあまりにも雄大で人間が蟻よりも小さく見える。生きていると、凄いものに出くわすことがあるものだと驚かされる。リナは空に向かって両手を合わせている。
ビーズはリナといるとなぜか心が澄んでくる。不思議だった。

往診と言っても日帰りは無理で、最低2~3日は逗留する。
そうすると、近辺の村からビーズに「もう一歩足を伸ばしてほしい」という使いが来たり、病人本人が逗留先までやって来ることもある。ビーズはすべて快く受け容れた。
お蔭で旅から旅の行商のようにもなった。
旅先では豆や鶏肉などを入れたシチューのような物を出してくれる。暖かくて美味しかった。何よりのご馳走だった。
道中では時々、羊の焼肉屋に出くわす。これに、にんにくの茎や生の玉葱などを添えると最高にうまい。ビーズが「生きていて良かった」というと、リナは嬉しそうに頬を赤く染める。
リナをいつも連れて行く理由は、言うまでもなく「絶対にアンナのような死に方はさせたくない。生も死もともに」ということだが、実は他にもう一つの理由があった。
人里離れ、雪に埋もれた農家では、親爺が申し訳なさそうな顔で「我が家はご覧の通りの有り様で、先生にお礼をしとうにも、お渡しする物は何もござらん。せめて、今晩はこの娘にお相手させていただこうと.. 」と、酒と若い娘を差し出してくる。
勿論、ビーズは何も受け取る気はないが、これを断わったら主人と娘の面子を潰すことになる。こういう地方では面子はアラーの次に大事なものらしい。
仕方ないから、一旦申し出を受ける。
夜遅くまで娘に今までに見聞きした話などをしてやる。娘の気持ちが解けたところで、ビーズは酒を呑み、酔い潰れる。娘からモーションを掛けられても対応不能、朝まで寝たふりをする。
娘は親爺に「あの先生は酒に弱すぎる。ゆうべは完全に酔い潰れちゃったわ」と報告する。親爺は「残念だな。折角、賢い血を分けてもらえるチャンスだったのにな。今度は生卵を飲ませて、酒の量を少し減らしてやろう」と親爺は親爺らしい姦計を巡らす。
リナが傍にいると、さすがに娘を差し出す者はいない。
ただ、ビーズは「貞操に厳しいイスラムにしてはちょっと習慣が違うな」と思った。
賢者の血は別らしい。

春がやって来た。
雪が溶け、川の水が溢れ、氾濫を起こし、緑が萌える。羊は喜び、野山に散る。
ただ、道は泥濘(ぬかる)み、寸断される。往診がむずかしくなる。
それでも、ビーズは往診をやめなかった。その頃には色々な道を覚え、分かる場所には
案内人を断ってリナとともに行動した。ふたりで馬を走らせるのが至福の時だった。

そんなある日、山間の道路で数十人の武装集団と鉢合わせになった。彼らはビーズとリナに狼のような鋭い目を向けた。「女は目が青いな、ロシア女か。上玉だな」「連行しろ」
迂闊だったようだ。やはり案内人を断ったのは間違いだったか。仕方がない。なるようになれ。だが、リナだけは逃がしたい。ビーズは心の中で叫んだ。「神よ、もしいるなら、リナだけでも助けてくれ!」
二人は銃を突きつけられ、一軒の古びた農家に連行され、集団のボスらしき男の前に引き出された。馬に積んだ荷物は大きなテーブルの上に載せられた。医療具、薬品、毛布、衣類、カメラ、衛星電話、、 今はこれらの品物を見定めしているが、そのあと身体検査を始めるつもりだろう。
ビーズは「自分自身が信じていない神など当てにしてもしようがない。ボスさえ押さえれば、あとは何とかなる」と、ジャンパーのポケットに隠し持ったナイフを握りしめ、ボスを目掛けて突進しようとした。
だが、リナのほうが速かった。ビーズがナイフを取り出す前に、リナは防寒コートの内ポケットからピストルを取り出した。彼女は犯される前に自殺するつもりだった。
しかし、武装兵たちは勘違いした。リナがボスらしき男に向けて発砲すると思った。
彼らは一斉に銃を構え、リナとビーズに狙いを定めた。緊張が走った。リナが少しでも銃を動かしたら、ふたりとも蜂の巣にするつもりだろう。
「おやおや、威勢のいいお嬢さんだね。わしはイズミールだ。お前さんたちを煮て食おうとも、焼いて食おうとも思ってはおらん。安心してくれ。野暮な質問だが、お前さんたちはこんなところで何をしているんだね」
ビーズはほっと安心した。コマンジール・イズミールなら、山賊や強盗ではなかろう。
「私はビーズ・サカモトという医者で、この先の村に往診に行く途中だ。これは私の妻だ」
「そうか、あんたの奥さんか。なかなか度胸の据わった奥さんだ。わしが20歳も若かったらあんたと決闘してでも嫁にもらいたいほどいい女だ。ところで、これは何だね」
「衛星電話とデジカメだ。普通は電源を切っておいて、必要に応じてこちらからビシケクの協力者に信号を送ることになっている。協力者とはフランスの報道記者で、こちらに医薬品を送ってくれている。デジカメはこちらの状況を画像で伝えるものだ。私は医者だが、戦争の悲惨さを世に訴えて、一刻も早くこの内戦を終わらせたいと思っている」
「デジカメで戦争が終わるなら、それに越したことはないがな。現実は甘くない。ところで、袖触れあうも他生の縁だ。あんたが医者というなら、少し診ていってくれんかな。わしらの中には傷が膿んだり、骨折したり、銃弾が体に刺さったままの者がおるんでな」
勿論、ビーズは否応もなく十数人の負傷兵を同時に治療することになった。合計で数十人のゲリラ集団のようだが、負傷者が十数人というのはかなり苦戦しているようだ。

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2011年1月 7日

ビーズ (パミールのはてに) vol.31 伽耶雅人

後年、アメリカはタリバンを敵視するようになり、2001年9月アメリカで同時多発テロが発生すると、アルカイダを匿ったとしてアフガン戦争(不朽の作戦)を始めるが、この当時(1990年代中頃)、彼らは新興タリバンの勢いに着目し、タリバンとの親密な協力関係を構築しようとしていた。
つまり今ではまったく考えられないことだが、アメリカはタリバンを通じてアフガンを他の中東産油国のように近代化(富裕化)させ、親米化させようとした。実際、アメリカはタリバンと石油パイプライン敷設の交渉さえ始めていた。(当時、この情報を得た日本の商社、メーカーは「好機到来」とばかり色めきたった。現地でタリバンとの直接コンタクトを試みた商社も幾つかある)
そのパイプラインは元ソ連領のカスピ海やアラル海の海底石油を(反米イランを迂回して)アフガン経由でパキスタンに流すという一大プロジェクトだった。当然ながら、アメリカはタリバンがもとソ連の一部であった中央アジア諸国(タジク、ウズベクなど)に浸透するのを抑えれず、黙認し、隠密に後押しさえした。
一方、ただでさえ中央アジア諸国のイスラム化に神経を尖らせているロシアにとってイスラム化の尖兵たるタリバンが旧来のロシアの縄張りの中に浸透してくるばかりか、そこから石油を掘り出してパキスタンに持ってゆくというアメリカ(オイル・マフィア)の策謀に一枚噛んでさえいる!これは既にロシアの許容値を超えていた。タリバンの駆除はロシア軍にとって至上命令となった。

マリオとの話しを終えて、ビーズはひどく疲れを感じた。自分はアメリカとロシアの陣取り合戦に加担するために苦労しているわけではない。
実際、当地でビーズの耳にも入って来る最近の目立った動きと言えば、南部のアフガン国境地帯を中心にイスラム原理主義者が増殖を始めたことだ。彼らはビーム誘導の機関銃とか、携帯型ミサイルなどを携えているという。
ビーズにはそれらの具体的な性能など分からなかったが、患者や医者見習いの話から、従来のソ連製兵器の性能を何倍も超えるハイテク兵器だということは容易に想像できた。
どうも、彼らは右手にコーラン、左手に剣をかざして疾風怒濤の如くユーラシアの大平原を侵した昔のイスラム戦士を気取っているように思えた。マリオは彼らのことを「狂犬のような」と言ったが、反政府勢力全体にとっては自らの体内に巣食う「癌」のような存在だろう。ビーズは思った。彼らは反政府勢力全体を混乱させ、あらぬ方向に導き、結果、自滅させようとしている。
一方、タジク政府側はどうかと言えば、一旦冬籠りを決めたが、タリバンの動きを察知するや、新たにロシアにアフガンとの国境地帯やイスラム支配域の空爆を要請した。ロシア空軍はそれを受けて、大空襲の準備を進めている。
マリオが言っていた「春になったら大衝突が起きる」とはこの事だろう。
ロシア軍はチェチェン紛争が泥沼化しているため、正直のところ、現状、タジク紛争どころではないが、脆弱なタジク政府軍を支えなければロシアの対イスラム防衛網は破綻する。
軍部からの圧力も強まっているという。軍部の圧力は別にしても、このままでは、油断ならぬタジク政府を超大国アメリカに走らせる結果にもなりかねない。結局、ロシア大統領は空陸軍にGO-SIGNを出した。

確かに状況はビーズの手に負えないものになりつつあった。
何とか殺し合いを止めさせたい。だが、もう自分の出来ることはなさそうだ。
何か裏切られた気持ちを感じつつ、重い足取りで我が家にたどり着いた。
リナに話した。事態はビーズの意図せぬ方向に動いている。
「俺はひどく疲れた。限界を感じる。もう俺の出来ることはなさそうだ。二人でどこか静かな場所に移り住もうか」
「私、どこでもあなたについて行く。どんな苦労だってする。でも、ここの患者はあなたを心底信じている。あなただけを頼りに生きているのよ。私があなたのように出来るなら、どんなに幸せか。これほど素晴らしいことはないと思う。限界を感じるなんて言わないで、お願い」
「リナ、ありがとう。君の気持ちは嬉しい。でも、ご覧よ。いくら人を助けても焼け石に水ではないか。ちょうど地獄でお医者さんごっこをしているようなものさ。こういうのを徒労と言うんだろう」
「あなたは自分に多くを求めすぎているんじゃないの。何もかも自分に引き受けようとすれば無理がたたる。自分の出来ることを精一杯やればいいと思う。確かに、あなたが手を尽くしても、どうしようもないことだってある。救えないこともある。でも、あなたは忙しくて知らないかもしれないけど、死んでいった人の多くはあなたにとても感謝していた。この前、死んだお爺さんも『生きていて良かった』って涙を流していたわ」
「それは自分でも感じている。いや、言いたいのは、俺がどんなに頑張っても殺し合いを止めることは出来ない。世界の人々に殺し合いを止めさせるよう訴えても、大国の思惑の前につぶされてしまう。一人一人を助けても、飛んで火にいる虫のように多くの人が死んでいく」
「でも、ここの人々はあなたを必要としている。私もあなたと一緒なら死ねる。私はあなたにこの生き地獄のなかで一人でも多くの人を救ってほしい」
ビーズは驚いた。リナからこんな強い言葉が出て来るとは思わなかった。
その通りだ。一人でも救うことが出来れば、それで十分ではないか。アメリカとロシアの陣取り合戦などどうでもよいことだ。自分の出来ることをやればよい。自分を必要とする患者がいれば進んで往診もしよう。
「ねえ、ビーズ、元気を出して、ね」とリナは顔を赤らめてウインクした。
リナは俺がまだしょげていると思っているな。この際、そう思わせておこう。

ランプの灯の下で天使のようなリナが一夜の娼婦になった。アンナからのお下がりだという黒い下着がビーズの欲情を燃え上がらせた。ビーズの突進を受けてリナは絶叫とともに陥落した。陥落後、気持ちよさそうにビーズに身を寄せるリナの聖少女のような清らかな顔を見つめながら、彼は女の不思議を感じた。「天使と娼婦が同居している」

明くる日、ビーズは遠くの山脈まで馬を走らせ、マリオと短いコンタクトをとった。
「マリオ、昨夜はありがとう。色々考えたが、これからもここで活動を続ける。
もし医薬品などの支援が可能なら続けてほしい。ソグドの末裔たちに、そちらに取りに行ってもらうことにする。それから、アピール手記は書きつづける。画像を付けて君に送るよ」
「了解、ありがとう。医療品は継続する。高性能のビデオカメラも送る。だけど無理はしないで。危なくなったら連絡してくれ。その通信機もそろそろ捨ててくれ」
「了解、ありがとう」
「チャオ。ビーズ、くれぐれも気をつけて」

その日から、ビーズは往診も始めた。往診を重ねるうちに往診先から迎えが来るようにもなった。2~3人の狩人のような銃を持った男達が送り迎えしてくれる。それは、ビーズの村の長老達が往診先の部落に出した条件のようだった。
長老と言っても普通の老人で、皆が愛称のように「長老」と呼んでくれるから「長老」ということになっている。特別の権限があるわけではなかった。彼らはビーズがいるだけで安心していた。ビーズを離したくない。「どうしても、ドクトルが往診に行くなら二重、三重の護衛をつけねばならない」と頑固に主張した。
厳寒の中、深い山間への往診はビーズにとって息切れのするほどの苦労ではあったが、この苦労は救いでもあった。生きる証だった。「逃げなくて良かった。リナの言う通りだった」

マローズの弟シャリーとアメル、孤児のダリサ、レイラなどの「医師見習い」は良く働き、良く学んだ。
少なくとも、どの薬がどういう症状に効くのか、どう使うべきかなど基本的なことは理解してくれた。衛生管理、栄養補給などの重要性も理解するようになった。今まで気付かなかったが、人を育てるということはなんと素晴らしいことだろう。ビーズは疲れを感じなかった。
少年達は切開や縫合までは行かないが、負傷者の止血や消毒、傷の手当ても出来るようになった。聴診器も使えるようになり、ビーズが往診に出ても、ある程度はあとを任せることが出来るようになった。
ビーズはレントゲンを欲しがったが、それは当分無理だった。抗生剤を始め医薬品の備蓄が出来たことは嬉しかった。遠くの往診先にはどうしても一度に多量の医薬品を持ってゆかねばならない。

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2011年1月 5日

ビーズ (パミールのはてに) vol.30 伽耶雅人

ところで、「タリバン」とは一体、何者なのだろうか。なぜこういうものが現れたのだろうか。
参考まで、Mr.エイランズ著2001年1月1日付け「ソ連介入後のアフガニスタン内戦」を下に紹介しよう。まずはアフガニスタンの状況から:(一部抜粋/補足)

19世紀、アフガニスタン(アフガン)は北方をロシアの属領(ウズベク、タジクなど)、西をペルシャ(現在のイラン)、東と南を英領インド(現在のパキスタン)に囲まれ、ロシア対イギリスの争奪の地 = グレートゲームの舞台であった。
第二次大戦後、イギリスがインドから撤退すると、北から徐々にアフガンの地に共産主義が浸透していった。共産主義ソ連の影響下、それに反抗する反ソ運動も強まってきた。
1979年、ソ連は「アフガンの治安回復」の名目で軍事介入した。その目的は、勿論、親ソ政権の防護、くわえてロシア伝統の南進政策(南の不凍港確保)だった。
アフガンの反抗勢力はゲリラ戦で大国ソ連に立ち向かった。これを支援したのがアメリカとパキスタンとサウジアラビア。アメリカは武器とゲリラ戦術、パキスタンは人員、訓練場、サウジアラビアは資金を。その他、多くのイスラム諸国から義勇兵が馳せ参じた。
ソ連という巨象は狼の群れに苦戦を強いられ、消耗戦の結果、1989年アフガンからの撤退を余儀なくされた。
自国に帰還したイスラム義勇兵たちはその勢いに乗って反政府・反米活動を展開した。アメリカが最も恐れる「オサマ・ビン・ラディン」もその一人である。
一方、アフガン国内では反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させた。アフガンの人々は彼らをムジャヒディン(=聖戦士)と呼び、「これでアフガニスタンは平和になる」と期待した。だが、それも夢の話となる。
権力の座を巡って、ムジャヒディン同士で仲間割れが発生したのだ。この仲間割れは内戦に発展した。これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられる。その間、難民は400万とも600万ともいわれ、パキスタン・イラン・中央アジア諸国に逃れている。そんな状況が2年近く続いたあるとき、突如アフガン南部に新興勢力が現れた。これがタリバンである。
このタリバン、あっという間に各地方の主要都市を制覇。これに対抗するムジャヒディンたちはことごとく駆逐されていった。当初、アメリカを初め多くの国々はこのタリバンが内戦に終止符を打つだろうと考え、支援さえしていたが、このタリバンはイスラム教の教典(コーラン)とイスラム法(シャリーア)を必要以上に過激に解釈し、「超原理主義」と呼ばれる行動をとった。厳しすぎる処刑方法、極端な女性差別、アヘン生産の奨励などなど。
こういう情報を受けて、各国のタリバンに対する反応は徐々に硬化していった。現時点でタリバン政府を承認している国は、タリバンを支援しているといわれているパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国だけである。
「タリバン」とは、一体何者なのだろうか?
タリバンとはアラビア語で(神学校の)「生徒」の複数形。(単数形はタリーブ)
多くはジハード(対ソ聖戦)のときにパキスタンに逃れた難民、またはその子供たちで、パシュトゥン人で構成されている。根拠地はアフガン南部の都市カンダハル。このカンダハルという町はソ連侵攻以前から貧しい町で、後進地区だった。教育もあまり十分ではなく、そのイスラムの教えもパシュトゥン人の掟「パシュトゥン・ワリ」と混ざったものだ。それが一時とはいえ、一般民衆の支持を得たわけはその徹底した清貧主義にあった。アフガン民衆は長年のムジャヒディンたちの権力闘争に疲れ果てていた。彼らは無欲で潔癖なタリバンに救民、救国の望みを繋いだのである。
彼らの指導者はムハンマド・オマル。カンダハル近郊の農村のイスラム指導者(ムラー)だった。長期化する内戦を憂い、90年代前半、弟子たちともに立ち上がった。その頃、(アフガンの主たるパトロンとなっていた)パキスタンの対アフガン政策は手詰まり状態にあった。(中略)
そんなときに、パキスタンはアフガン南部カンダハルで勢力を伸ばしつつあったタリバンを見つけ、以後、公然とタリバンの支援をするようになった。
さてこのタリバンなのだが、かなり「変」である。まず、彼らのイスラム(宗教)はアフガンにはそれまで存在していなかった。アフガンには三つのイスラムがあった。一つ目はスンニ派の伝統的イスラム。二つ目はその伝統的イスラムにスーフィズムという神秘主義的傾向を加えたイスラム。そして三つ目は60年代のイスラム急進派である。
しかし、タリバンはこのどれにも属さない独自解釈のイスラムを信奉し、それ以外のイスラムは間違ったものと決めつけている。彼らが独自解釈に至った原因は、パシュトゥン人だけの掟「パシュトゥーン・ワリ」が影響を与えていたことと、貧困による教育不足のために不十分なイスラム知識しか持ち合わせていなかったことがあげられる。その例をいくつか挙げる。
◎性犯罪者に対する処刑で彼らは前代未聞の処刑方法を行った。獣姦の罪で死刑を宣告された三人の男は、土とレンガの巨大な壁の下に連れて行かれ、その壁を戦車が押し倒し、瓦礫の下敷きになって死んだ。タリバン曰く「イスラム法に基づいた処刑」だそうだ。しかしこんな処刑は他のイスラム国では行われていないし、イスラム法には「壁を崩し、その下敷きにさせて処刑せよ」ということは書いていない。
◎また女性の存在も否定している。女性は教育を受けてはならず、働いてはならず、町によっては外出すらしてはならない。なぜなら「女は誘惑により、アラーへの信仰を妨げるもの」だからだ。女性の国連職員ですら活動を禁止され、鞭を打たれた職員もいた。餓えで苦しんでいる人々への食料援助要員ですら、女性という名目で活動を禁止された。アフガニスタンでは内戦・干ばつ・地震により、十分な作物が収穫できず、餓死者が50万~100万人と言われているのにも拘らずだ。
◎さらに西欧の文化だけでなく、アフガン国内に暮らす諸民族の文化までも否定している。音楽・踊り・スポーツ、そして凧揚げすら禁止された。96年12月、カブールで発表された宗教警察総本部の布告には次のように書かれている。
「6. 凧揚げの禁止。凧を売る店は廃止されなければならない」
「12. 結婚式での歌や踊りの禁止。これに違反した場合は家長が逮捕され、罰せられる」
◎さらにさらに、麻薬には反対しているが、アヘンには賛成の態度を取っているのだ。
イスラム教では麻薬は厳禁だが、彼ら曰く「アヘンはアフガン人には消費されず、イスラム不信者に消費されるからいいのである」と。つまりこれは、海外にアヘンを輸出しているということだ。95年以降、カンダハル一帯ではアヘンの生産量が飛躍的に増加した。タリバンがケシ栽培を奨励しているからだ。
このアヘンはイラン・中央アジアを通ってロシアやEU、アメリカ、そして全世界に流れ出ている。このようなタリバンの偏ったイスラムはアフガンという国をパシュトゥンと非パシュトゥンに二分してしまった。タリバンは支配地域を拡大させると同時に、その独自のイスラムを諸民族に強制したからだ。そして非パシュトゥンの文化を破壊していった。各勢力の残兵たちが山賊の親分のようなコマンジール・マスードのもとに集まり、北部同盟を結成する背景にはこういったタリバンの蛮行があったからだった。
またアフガンに暮らす普通の人々も彼らを恐れた。ムジャヒディンたちが内戦をしていた時代の方がまだ「自由」はあったのだ。ムジャヒディンたちは「イスラム原理主義」と呼ばれていたが、それでも社会の近代化には前向きだったし、女性の地位も認めていた。しかしタリバンは、反近代的・反欧米的、そして女性を認めなかったのである。またタリバンは国際的な承認を受けていない。国土の90%以上を獲得しているにも関わらず、国連の代表権も持っていない。代表権は依然として北部同盟のラバニ大統領が握っている。

(注)上記は2001年9月の世界同時多発テロ以前のアフガン情勢を記したものである。

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2011年1月 3日

ビーズ (パミールのはてに) vol.29 伽耶雅人

数日後、マリオからの連絡待ちでキルギスの首都ビシケクに残っていた若者達もパミールの村に戻って来た。馬の背にはたくさんの荷物が積まれていた。新しい通信装置とマリオからビーズへの手紙もあった。
「親愛なるドクトル・ビーズ、お元気ですか!
君の手記と画像ディスクを持って国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に当たりました。
当面の支援物資として医薬品、医療器具、食料、衣類を受け取りましたので君の仲間を通してそちらに送ります。君の活動に役立ててください。UNHCRのスタッフの話ではこの国に渡される援助物資や基金の殆んどが政府高官や軍幹部によってどこかに消えてしまっているそうです。君のような人から直接に支援対象者に渡される物資はその何十倍も何百倍も有意義だと言っていました。まったく同感です。今はまだ『焼け石に水』かもしれませんが、このような活動を継続し、その輪を広げてゆくことできっと『大きな変革の呼び水』となると信じます。
新たに通信装置を送ります。前回よりも性能は良くなっている(はずです)。説明書を添付しておいたので読んでおいてください。
ところで、君のパミールの仲間は昔から『物流』を生業としてきたソグドという民族の末裔だそうですね。『わしらは道づくりのプロだ。シルクロードだってわしらがつくったものだ。これから、ビシケクのマリオとパミールのビーズを繋ぐ蟻の道をつくってみせる』と言っていました。嬉しいじゃないですか。私はソグドという民族を知らなかったのですが、少し歴史を勉強してみて、絹の道とソグド人は切り離せない関係にあったことを知りました。あの駱駝の上に乗った商人こそが彼らのご先祖さま、中国人が碧眼白皙の民と呼んだ人々だったのです! などと、話は少し逸れましたが、彼らは私と君の間をどんな物でも2~3日以内に運んでみせると言っていました。彼らの力を借りて君との連携をずっとキープしたい。我々には真実を知り、世界に伝える義務と喜びがある。これが私の率直な気持ちですが、ビーズ、君もきっと同じですね。これからもよろしく!
衷心より、マリオ・ダルヴォール
P/S: この戦争で既に数十人のジャーナリストが殺されています。医者とて、もし敵を利する者と見做されたら、決して例外ではありません。くれぐれも身の安全に気をつけてください」

ビーズは「そうか。ということはリナもシルクロードを闊歩したソグドの子孫ということになるな。碧眼白皙か。それで彼女は肌が白く、目が青いのだな」と変に納得した。
彼はリナに「マリオからこんな手紙が来たよ。読んでごらん」と手紙を手渡した。
リナはそれを読んで「すばらしいわ。ビーズ、あなたの苦労が少しでも報われそうね。私はクリスチャンじゃないけど、聖書を読んだことがあるのよ。たしか『彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない... 』って書いてあったと思う。私はこれを読んだ瞬間、胸にぐっと来たわ」
「なるほど、昔の人も人間にとって最も大事なことは殺しあいや奪いあいではなく、生きる糧を作ることだと知っていたんだな。今風に言えば『銃を鍬に変え、大地に戻れ』というところだね。俺もゆくゆくは君とそうしたいと思っている」
「ビーズ、大賛成よ。きっとそうしましょう。でも、ここの人たちにとってあなたはアラーの次に大事なお医者さんだから、すぐには無理でしょうけどね。とにかく、私たちもっともっと頑張らなくっちゃね」

これと同じ頃、タジクの外ではこの内戦に終止符を打とうという機運も高まりつつあった。国連は、遠からずタジク全域に紛争監視団を派遣するという。
西の首脳も動き出した。彼らはホットラインを通じてロシアの大統領にタジク内戦の収拾を要請した。ロシア大統領は「取引」した。西側がロシアの国内問題=チェチェン紛争に干渉しないこと、かつタジクの拠点防衛に必要最低限のCIS平和維持軍(ロシア軍)を残すという条件で西の要求を呑んだ。この結果、ロシアはタジクから軍の主力を撤退させ、暫しの間タジクでの激しい戦闘は止んだ。一時の休戦状態が生まれた。
ロシア連邦内のチェチェン共和国が独立を求めて激しく燃え出したため、ロシアはチェチェンへの兵力シフトを迫られたこともタジクから撤退の一因であった。

そんなある日、マローズが弟二人を連れて来た。「ドクトルの言うことは何でもやらせるから、こいつらを医者にしてくれ。ほら、これが持参品だ」と食料、岩塩、それに数頭の羊の群れも連れて来た。ビーズは勿論、持参品がなくても喜んで迎え入れた。
他にダリサ、レイラ、リョーシャなど数人の少年や少女がビーズのもとに身を寄せてきた。親を失い、行き場を失った子供たちだった。ビーズはリナに薬品や食料の管理を任せた。彼女はビーズの手伝いをしながら、毎日のようにダリサやレイラたちを連れて老人や孤児の世話をし、食料を配って歩いた。ビーズはリナに天性の(とビーズには思える)喜捨の心を感じた。
リナは、ビーズが一日中あちこち忙しく立ち働き、夜遅く家に帰ってくるとあっという間に寝てしまうので、始めのうち二十歳の体をもてあますこともあったが、そのうちにそういう生活に慣れてしまった。

このように(それなりに)平穏な日々が続いたある夜、ビーズが定時に通信装置の電源を入れたところ、短信音のリピートが入ってきた。「マリオがビーズと話をしたい」という信号だ。ビーズは電源を一旦切って、村から遠く離れた原野に出てマリオに衛星電話をかけた。
「ハロー、マリオ、元気か」
「ハロー、ビーズ、こちら元気だよ。君も元気か。聞いてくれ。君のアピール手記や画像は世界中に流れた。それが功を奏したのかどうかは別として、ロシア軍の主力部隊は撤退した。厳密に言えば、チェチェン方面に主力をシフトしたということになるが。とにかく、この一ヶ月、空爆や大規模な戦闘は止んでいるはずだ。そうだろう」
「ああ、そう言えば、そうだ」
「おい、おい、君は案外のん気だね」
「いや、患者の治療が忙しくて、空を見上げる暇がなかったんだ」
「ところで、西側では、君は、君の知らない間にブラックジャックというニックネームをもらっているよ。黒い眼帯をつけた正義の名医だそうだ。おめでとう、と言うべきかな。それはそうと、聞いてほしいのはこれからだ。アメリカはこの機に乗じて、この地域でのロシアの力を殺ぎ落とそうとしている。こちらの掴んだ情報では、彼らは武装イスラムの後押しをしている。タリバンという集団名を聞いたことはあるだろう。狂犬のようなイスラム原理主義者だよ。アメリカはタリバンを自らの傀儡(操り人形)にしようとしているが、そんな事をしていては、いずれ狂犬に手を噛まれることになる。それでも、今、ロシアの影響力を殺ぐ方が大事なことなのだろうか。ああ、これは私の独り言だがね。とにかく面白くない展開になってきた。
おい、聞いているかい、ビーズ。ロシアは少なくとも現状ではタジクをアメリカに譲り渡すつもりはない。タジクを手離せば、中央アジア全体が雪崩を打ってアメリカ側に流れてしまうことが目に見えているからね。春になったら、大衝突が起きる。君は十二分にやった。もう身を退いてはどうか。君のことが心配なんだ。タリバンは真っ先に外人を標的にすると聞く。外人の君がロシア軍だけでなくタリバンの標的にされてはたまったもんじゃない」
「ありがとう、マリオ。全てがいきなりだから、いまは面食らっている。落ち着いたらこちらから連絡する」
「了解。ところで医療品、食料、衣類の第二弾が用意できた。ソグドの末裔をこちらに送ってくれるか」
「マリオ、ありがとう。早速手配する」

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2010年12月31日

ビーズ (パミールのはてに) vol.28 伽耶雅人

「私は今すぐ国連機関にも、EU(欧州連合)にも乗り込んでいって即時停戦と人命救助を要請する。戦争当事者にも、世界中の人々にもタジクの平和を訴えてゆく」と、無線電話の向こうからマリオが大声で話しかけてきた。「ビーズ、君からもらった映像と手記は今、大変な反響を呼んでいる。遠からず、状況は改善されると思う。今の君の話も録音したから、現地の証言として世界中に流す。ただ、この会話は傍聴されている可能性がある。周波数もロックオンされるはずだ。この通信装置はもう使えない。すぐに捨ててくれ。君の仲間とは連絡が取れた。彼らと協力する。急いでその場を離れてくれ」と通信を切った。

その日の夕方、ロシアのTVにはいつもの美人アナウンサーが出ていた。
「今日の早朝、CIS平和維持軍はタジクの連続爆弾テロの主犯で、麻薬王の顔を持つコマンジール・イズミールとその一味を東部セレスコ村で掃討しました。掃討後、セレスコの村民は平和維持軍から食糧や医薬品の配給を受け、残虐なテロリストから解放された喜びを『今日という日をセレスコの解放記念日として、末長く祝いたい。平和維持軍にもっと早く来て欲しかった。とにかく、これでここにも平和が戻る。こんな嬉しいことはない』と伝えています」と魅力的な顔で微笑んだ。(注:CISとはロシアを中心に旧ソ連12ヶ国で形成された「独立国家共同体」の略称 = Commonwealth of Independent Staes)
顔を見ているだけで嬉しくなるほどの美女がそう言うからには、少なくともロシアの男性の多くは彼女の言葉を鵜呑みにした。TVは、ご丁寧に、白い麻薬の入ったビニール袋の山と「テロリストに殺された」村民の死体まで赤裸々に映し出していた。
もしビーズがこれを見ていたら、怒り狂い、挙句の果ては武装ゲリラに身を投じていたかもしれない。が、幸いにも彼はこのニュース番組を見ることができる場所から数百キロも離れた場所にいた。彼は医師として後ろ髪を引かれる思いでセレスコ村を後にした。
「あれだけの軍を投入した以上、軍医も従軍しているだろう。私がのこのこ出て行くこともなかろう」と思う反面、「本当に負傷者の治療をきちんとやるだろうか」という疑いも湧いた。しかし、日本人の自分が現場に出て行けば不審訊問を受け、逮捕されるだけだろう。結局、ここはロシアの軍医の良識に頼るしかなかい。しかし、十分な医薬品を持参しているだろうか、、
ビーズは山に向かって「マローズ、マローズ」と呼びかけた。リナも呼んだ。
マローズが現れる確率はゼロに近いと思っていたが、数分後、ひょっこりマローズの実物が姿を現した。「おお、マローズ、済まんが、この薬袋を持って村に入ってくれないか。もし現場で医薬品が不足しているようだったら、これを使ってもらってくれ」と、三袋のうち一番大きな一袋をマローズに預けた。「村人に使い方が分らないようなら、村人を通じてロシアの軍医なり衛生兵に渡してもらえばいい」とマローズに指示した。

ビーズとリナは山道に入り、セレスコ村から遠ざかった。
南へ、南へと進み、セレスコを離れてから3日目の朝方、懐かしの東パミールの村パセルカに着いた。村の皆がふたりの無事帰還を祝ってくれた。酸味の強い地酒に男達のダンス。その中に(驚いたことに)あのマローズたち数名の護衛も入っていた。彼らは二人と殆んど同時に村に帰着したようだ。
リナは村の女性たちと一緒にご馳走を作ったり、運んだりしている。彼女はビーズに酒を注ぎながら「あなた、今夜はあまり飲まないでね」という。
アンナがいたら、ベリーダンスを始めていたところだろう。アンナなら(止めてもやるから)仕方ないが、リナには絶対ベリーダンスなどさせたくない。白くやわらかな肢体のリナはアンナより艶めかしい。これは絶対に他の男に見せるわけにはいかない。
酒と食事がすこし落ち着いたところで、あのマローズが立ち上がり「コマンジール・イズミールを匿ったことでセレスコ村が攻撃された。このことは皆が知っていると思うが、私はそのセレスコに入ってみた。殆ど皆殺しだった。生き残った者も『この先、生きて地獄を見たくない。思い切って首を撥ねてくれ』と言っていた。こんな時に暗い話をして済まない。だが、聞いてくれ、コマンジール・イズミールはまだ生きている!」と言う。
村民は歓声を上げたり、手を叩いたり、酒をあおったり、なかには両手を広げて踊り出す者もいる。ビーズには理解しにくい状況だった。
リナを見ると、彼女もビーズと同じ気持ちだったのか、悲しそうに目を伏せていた。
長老らしき男の一人が「我々にもセレスコ村と同じ運命が巡ってくるかもしれない。その時は、皆、男として死ねるか」と叫んだ。
全ての男が「おお!おお!」と手をあげた。中には刀を振り上げる者もいた。
どこから手に入れたのか、マシンガンを空に向けて射ち鳴らす者もいる。

その晩は、リナと虫の声を聞きながら、静かな時を過ごした。
ビシケクからここまで、殆ど夜間の移動だった。昼間は山中で仮眠を取ったが、ビーズは常にあたりに注意を払っていたので熟睡は出来なかった。
ここに帰って、彼は屋根の下で眠れることがとても幸せなことだとつくづく思った。
ただ、リナは違っていた。その若さゆえか、それともビーズを信頼し切っているからか、ビシケクからの道中、昼間もビーズの胸に身をゆだね、気持ちよさそうに寝ていた。
とは言え、今、二人だけの部屋のなかでは服を脱ぐことも出来る。やかんにお湯を沸かし、体の隅々をきれいに洗い清めることが出来る。それだけでリナは幸せだった。

あくる日から、ビーズは病院に戻った。病院とは名ばかりのテントの作業場だった。長い間の留守はそれなりの犠牲を生んでいた。数人の患者の腕や足を再手術する羽目となった。
ビーズの留守中、助手達が負傷者の血を止めるために腕を固く縛りすぎたようだ。お蔭で血管どころか筋肉神経も締め付けられて、完全にひからびてしまっている。フォルクマン拘縮という症状だ。このままでは、腐ってしまう。急いで切断せざるを得なかった。
風邪で熱を出した患者に解熱、鎮痛剤だけを呑ませていれば肺炎も起こす。勿論、快方に向かった患者も多かったが、このような幼稚なミスは絶対犯してはならない。

パミールに帰って一息つく間もなく、また多忙の日常が始まった。
患者は去り、新たな患者が来た。大変な遠隔地から病人や怪我人が集まって来た。
患者が患者を呼び、人が人を呼んだ。村の人口は以前に戻った。
ビーズは人々と親しくなって行くうちに、気になっていたことが、頭をもたげて来た。
コマンジール・イズミールのことだ。
反政府ゲリラの首領イズミールがここに逃げ込んできたら、また戦争が始まる。
村人は英雄とともに死ぬ気になっている。それでは困る。患者たちを戦いの巻き添えには出来ない。
戦いが起こったら最も危険な場所となる村の中央広場から、患者を少しでも遠ざけるため、山中に「ビーズ病院」を移動することにした。
山の斜面にテント村を移設した。運転時には大騒音を奏でる発電機も運んだ。発電機のための石油も食料も、勿論、医療用品も運んだ。そして、テント村のすぐ近くに洞穴を作った。
洞穴は医薬品や食料の貯蔵用だが、万一の時はテントを折りたたんで患者全員を避難させることが出来るよう深く掘り込み、給排水、換気などには特に注意を払った。
それはちょうど蟻の巣のようになった。
患者達が山のテント村に移動すると、すぐさまルンペン部落のような汚れた病院になってしまった。しかし、ビーズは患者を少しでも安全な場所に移動させることが出来て、多いに安堵した。

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2010年12月29日

ビーズ (パミールのはてに) vol.27 伽耶雅人

外では雨が降っていた。雨の中、リナは外でずっとビーズを待っていた。
「リナ、これから知り合いの病院に行ってくる。先にホテルに帰っていてくれ」とリナを先に帰らせた。ビーズは雨にぬれるリナの後ろ姿を見ながら思った。
「アンナには男の心を焼きつくすような激しさを感じたが、リナからは今の雨のようなやわらかな愛を感じる。アンナが灼熱の赤なら、リナは清楚な白、そばにいるだけで心が洗われるような... 」「できれば、この町でリナに洋服の一着も買ってやりたいが... 」「しかし、多くの患者が待っている。早く段取りをつけて、パミールに急がねば... 」
あれこれ考えながらビシケクの町を歩いた。
気がつけばビシケク総合病院の裏手に着いていた。
顔なじみの薬剤師アメドフに会った。アメドフのポケットにお金を差し込み、大きなサンタクロースの袋に3杯ほどの医薬品や医療器具を受け取った。アメドフは「また来てくれ」とウインクをした。これは薬の横流し。もちろん悪事、違法行為だが、ビーズは「強奪より少しはマシだろう」と自分に言い訳をした。
彼は白タクを拾い、バザール(青空市場)に廻った。バザールの入口で白タクを待たせておいてパミールへの帰路の食料品を買い込むつもりだった。そして、リナに合いそうな服を物色するつもりだった。が、バザールの中でパミールの村の若者マローズにばったり出会った。
「おい、マローズじゃないか。どうして君がここにいるんだ」
マローズは「しまった」という顔で、照れくさそうにしていたが、「いや、村の爺さん達にあんたらを護衛するように言われてね。前後を10人ほどで固めていたんだよ」とあっさり自白してしまった。
「そうか、ありがとう。苦労をかけて申し訳ない。ところで、ちょうど良いチャンスなので、ご苦労ついでに一つお願いがある。明日、私とリナはここで手に入れた医薬品を持ってパミールの村に帰る。いつになるか分からないけど、それとは別に医薬品や医療器がたくさん入手できるようになると思う。マリオというフランスの報道記者から連絡が入ることになっている。できれば、君達にこのビシケクで待機してもらい、品物を受け取ってもらえればと思うんだが。マリオはロシア語も話せる。連絡のために一人はロータスというホテルに入ってほしい、どうだろう」
「分かった。ただ、3~4人はあんた達のガードを続けることにしたい。ビーズ、あんたが反対しても駄目だよ。これは村全員の絶対命令だからね」

ビーズはマリオに電話を入れ「私は今からビシケクを離れる。医療用品はホテル・ロータスに届けてほしい。ロータスに村の者が待機している。電話番号は... 」と伝えた。
「了解した。ビーズ、君のアピール手記と画像はすぐさま世界中に流す。ロシアにも流す。停戦の一助になればと思う。ただ、君はこれから狙われる危険がある。用心してくれ。出来れば、直ちに西側に出るほうが安全だと思うが」
「ありがとう。でも、たくさんの人が待っているからパミールに帰る。何かあれば、君からいただいた通信機を使って道中でも連絡する」
「了解。でも、通話は短時間で、しかも通話後は必ず電源を切って、その場を急いで離れてくれ。空から狙われたら逃げようがないからね。くれぐれも用心してくれ。チャオ」
「ありがとう、チャオ」

パミールへの旅は九月の初旬となった。ふたりはセーターと防寒コートを着込んで国境を目指した。山々は紅葉し、既に冬の準備を始めている。遠くに雪の峰が待ち構えている。
無理をしないようゆっくり進む。高山病を避けるためしばしば休息を取る。
3~4人が距離をおいて二人をガードしているということだが、一切気配を感じなかった。
ガードがいれば山賊には安心だが、軍隊とぶつかれば3~4人のガードでは一溜まりもない。ビシケクを出発してから5日目にビーズとリナは脇道を使って国境の山を越えることにした。眼下の雲が海原のように見えた。付近に国境警備隊がいる気配がなかったので、ふたりは国境の山を越え、パミールへの道に入った。高い山が幾重にも重なって見える。今更ながら、行く手の厳しさが思いやられた。
タジクに入ると昼間は森に潜んだ。乾燥した枯れ枝を集め、煙をたてないように火をおこす。ほっとする瞬間だった。タジクに入って数日過ぎた早朝、山の霧の中にセレスコという村が見えてきた。
人口3000人といったところだろう。小さな村だった。
その日は村に入らず、森の中に身を潜めた。いつものように暫しの休息を取ることにした。
ビーズが枯れ枝を集めている時、ジェット機が飛来した。3機編隊だった。
ビーズは急いで動画撮影を始めた。目にも止まらぬ速さでビーズたちの頭上を掠めると、3機ともゴーゴーという轟音を立てて上昇を始めた。ジェット機は上昇を始める前にミサイル弾を発射したようだ。村の数箇所から黒い炎が上がり、ドカーンドカーンという大音響がビーズの胸にぶつかって来た。
雲の上に昇ったジェット機は急降下を始め、再度、村にミサイル弾を落として飛び去って行った。黒煙が小さな村の上空を覆った。

その直後、聞き覚えのあるヘリのエンジン音が聞こえて来た。
6機の攻撃ヘリが頭を下に向けて高速で飛来し、ビーズとリナの頭上を通り過ぎると、セレスコ村の上空を舞った。ビーズは撮影を再開した。ヘリは機関銃を下に向け、上がったり下がったりの不規則な運動を繰り返しながら、ラウドスピーカーでがなりたてた。
「この村に連続爆弾テロの主犯イズミールとその一味が逃げ込んだ。先ほどのジェット攻撃でテロリストの主たる拠点は破壊した。イズミールとその一味に告ぐ。5分待つ。武器を捨て、白旗を掲げて出て来い。さもなくば、容赦なく殲滅する。セレスコの村民に告ぐ。同じく5分以内に村を離れ、北側の広場に集合せよ。もし5分以内に出て来ない場合はテロリストの協力者と見做して攻撃する。繰り返す。5分以内に村を離れ、投降せよ。北の広場に集まれ。さもなくば、テロリスト及びその協力者と見做して徹底的に攻撃する」同じことをもう一度繰り返し、カウントダウンを始めた。
ビーズとリナは馬を太い木に繋ぎ、目隠しして、枚(ばい)をふくませた。
5分の間、二人は息を凝らして待った。「早く、出て来てくれ」と祈った。
少なくとも、女子供や老人は白旗を揚げて出て来ると思っていた。
しかし、誰も出て来なかった。
5分が過ぎると約束通り、ヘリの群は攻撃を開始した。ガガガガッいう機銃掃射につづいて、ドスンドスンと腹にこたえる砲弾の炸裂音が聞こえて来る。村の建物が次々に黒煙を放ち、破壊され、火に包まれる。空から村全体を破壊し尽くすつもりのようだ。
ビーズは殺戮の現場を撮り続けた。リナは馬を落ちつかせようとして彼らの首を撫でている。
村の北側にある学校の広場では、新たに飛来した二枚プロペラの大型輸送ヘリが次々と着地している。攻撃ヘリは空中を旋回し、輸送ヘリから降り立つ兵員のガードをしている。ロシア=タジク政府軍は一兵も失うことなく村を占領した。

ビーズはマリオから受け取った通信装置でマリオと交信した。
状況を詳しく説明し「この事態を世界に強くアピールしてほしい。一刻も早くこのような殺戮を止めさせてほしい」と頼み、叫んだ。

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2010年12月27日

ビーズ (パミールのはてに) vol.26 伽耶雅人

「先生はこれで当面必要な医薬品を買い揃えていただけないでしょうか。それだけあれば、当面の医療活動にはお役にたてると思いますが。ところで、事前に申し上げておきたいのですが、手記の公開につきましては、我が国はロシアやアメリカとの関係を考えますと、慎重のうえにも慎重に対応せねばなりませんので... 」
「1万ドルもあれば、私自身の当面の医療活動には十分ですが、それは全体のほんの一部に過ぎません。広域の医療活動が必要です。タジクでは日々人が戦災で傷つき、飢え、死んでいます。私はこの手記と映像を世界中のメディアに流して、人々に訴え、広域医療の実施を、また、それと同時に戦争そのものをやめさせることを訴えていきたいのです」
「あなたの仰ることはよく分かります。ただ、これは政治の問題、一朝一夕に解決できるものではありません。微妙な外交問題にも発展しかねません。お書きになられていることの裏づけを取ったり、各関係先への根回しをする必要もあります。ですから、まず1万ドルほどで当面の対応をしていただきたいと思うのです。もし1万では不十分ということでしたら、1万5千ドルまでなら... 」
「どうも場所を間違えたようです。この手記とディスクは持ち帰ります。他にあたることにします」
「坂本さん、それはどうでしょうかね。私としてはあなたの立場を考えて最大限の好意で申し上げたつもりだったのですが、ご理解いただけないようですね。あなた自身がお書きなっておられますが、あなたは反政府側の自発的な協力者だったわけでしょう。一国の海外医療協力基金からお金を受け取っていながら、無断で他国の非合法軍事組織の協力者になられた。数名のタジク軍兵を殺してもいらっしゃる。これは重大な問題です。あなたはご自分の恥を天下に晒すだけでは済まなくなりますよ。公金を詐取された。それに海外派遣の帰朝報告書にも偽りがあるでしょう。それは公文書偽造ということになります。当然、刑事責任も追及されることになります」
「分かっています。どのような処罰をも受ける覚悟は出来ています。考えてください。多くの人が無意味に殺されているのに、自分一個の保身のために、それを見て見ぬふりをすることが出来ますか」
「なるほど、よく分かりました。それではこれをお戻ししましょう」
ビーズはひどく疲れを感じて大使館を出た。
リナが外で待っていてくれた。
「うまく行かなかった。ほかを当たる。今日は少し飲みたい」
タクシーを拾って、アンナと最初に会った喫茶バーに乗りつけた。
昔のままだった。昔と言ってもほんの一年前のことだが、とにかく昔と同じ席に座った。
ウオッカを頼んだ。
リナが「何か日本の面白い話しをして」というので、ビーズは暫し考え込んだ。
「よし、分かった。こっちへおいで。昔、日本の山奥で出会ったお坊さんの話しをしてあげよう。面白いんだよ。妖怪のような格好をしたお坊さんだった。顔を口だけにしてカッカッカと笑うんだ。『人間は無から生まれ、無に戻る。生は一瞬の光だ』というんだよ。それから、『人間は罪にまみれて生きておる。まずはそれを正面から見つめることだ。我も悪人なりと言えれば、一歩前進だ』と言っていたな。その時はピンと来なかったけどね、今は少し分るような気がする」
「私も分かるような気がする。日本のお坊さんも偉いのね」
「彼だけさ。殆んどが下衆だ。今日会った奴も下衆野郎だった」
「ビーズ、あなたは疲れてる。今日は私があなたを抱いてあげる。赤ちゃんみたいに眠るのよ。目が覚めたら、きっと疲れは取れているわ」
「リナ、ありがとう。そうする」
その夜、リナはビーズを赤ちゃんみたいに抱いたつもりだったが、激しく抱かれてしまった。
そのあと、リナは夜の窓越しに遥かな星空を見上げ、「アンナ、やったわよ」と報告した。
「恐かったけど、でも、これで私たちもようやく本当の夫婦になれたわ。今、すごく嬉しい。また報告するからね。おやすみ、アンナ」

あくる日からビーズはホテルに缶詰で手記(アピール)の英露訳に取りかかった。3日間、根をつめて頑張った。露文のほうはビーズの拙い文章をリナが見事に仕上げてくれた。そして、出来上がりをホテルの受付で多数コピーしてもらった。2枚1ドル。ピンハネ込みか、意外と高かった。
始めは赤十字とか国連機関などに当たるつもりだったが、どこに行ってよいものやら見当がつかず、結局、ビシケク在住の外国メディアの支局に当たることにした。
「自分は内戦中のタジクに飛び込んで、医療活動をしている日本人ですが、もしご賛同いただけるなら、このアピール手記の内容を世界中に流していただき、無意味な殺しあいを止めさせるよう訴えていただきたい。できれば医薬品などの現地向け援助もお願いしたい」と頼んだ。
メディア各社を訪問し、その数社目にフランスの民放TFVの支局に立ち寄ったところ、以前このビシケクで知り合った記者がちょうどそこに居合わせた。ビーズが日本からディスクを送ったマリオ・ダルヴォールというイタリア系フランス人だった。
「マリオと呼んでくれ。君の名前はミスター・サカモトだったね」
「そうだ、でもビーズと呼んでくれ」
「ビーズ、君が日本から送ってくれたディスクの写真や映像はとてもリアルで多いに反響があった。やはり生の映像のインパクトはすごいものがあるよ。今回は手記を書いたというわけだね」
「手記は各社に手渡したが、新しい画像ディスクは君に渡そう。君がここにいると知っていたら、他には廻らず、ここに直行していたんだが、、ああ、それに、それぞれの写真や映像にはできるだけ詳しく状況説明を書きつけておいた」
「ビーズ、ありがとう。手記とディスクを見せてほしいので、暫く時間をくれないか」
ビーズは「それでは、連れが外で待っているから、この町を案内してやることにする。今から4~5時間後にここに戻って来よう」とマリオのオフィスを出て、リナと町を歩いた。
ビシケクは、見慣れてくると、これが一国の首都かと思うほど小さな町だった。
だが、リナにとっては生まれて初めて目にする大都会だった。広い道路、行き交う自動車、西洋風の建物、若い娘たちのハイカラな服装、巨大なオシ・バザール、優美なパンフィロフ公園、南には万年雪を被る山々が美しく聳える。あっという間の4~5時間が経ち、ビーズはマリオのオフィスに戻った。マリオの反応は早かった。
「ビーズ、私はこれから仲間とも連絡を取りあって、急いで医療支援を手配する。もし段取りがついたとして、医薬品や医療機を引き渡すにはどこに送ればよいかな」
「どこでも使える携帯電話を貸してもらえないか。受取り場所を連絡する」
「了解した。これはどこでも使える携帯電話だ。人工衛星経由の直接交信だから地上局のないところでも通信が可能だ。少しかさ張るが、これでも昔よりはかなりコンパクトになった。君にプレゼントしよう。これで連絡してくれ」
「ありがとう。マリオ、私はこういう手記をばら撒いた以上、急いでパミールのねぐらに帰らないと密入国の罪で逮捕される。今、逮捕されては困る。現地でもっと医療活動をしなければならない。だから今晩にも姿を消す。マリオ、手記とディスクについてはよろしくお願いする」
「了解。TV、ラジオ、インターネット何でもござれだ。これは少しだが、私個人の気持ちだ。ビーズ、受け取ってくれ」
内ポケットの財布から100ドル札を4枚取り出し、ビーズに渡してくれた。
ビーズにとってはあの1万ドルの束よりもはるかに嬉しかった。
「ありがとう。マリオ、これからも手記と画像を君に送るよ。君もいつか現地に来てくれ。
歓待するよ」
「ありがとう、ビーズ。是非、行かせてもらう」

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2010年12月24日

ビーズ (パミールのはてに) vol.25 伽耶雅人

リナはビーズがピストルを持っていることを知っていた。
ヘリの編隊が上空を通り過ぎたあと、彼女は「万が一のときの護身用に欲しい」と、そのピストルをビーズから貰い受け、自分の防寒コートの内ポケットの中に押し込んだ。
彼女はビーズには言わなかったが、万一のときは犯される前に、そのピストルで自殺するつもりだった。「姉さんは犯されるより殺されるほうを選んだ。私もそうする」

ふたりは夜半にカモフラージュのビニールシートを畳み、キルギスへの道を急いだ。
何度か川も渡った。ビーズは昔、父親が詠っていた「鞭声粛々夜河をわたる.. 」を思い出した。当時は他人事だったから、夜に川を渡ることがどれほど大変な事か想像もしなかったが、川の水は身を切るように冷たい。対岸に着いても火を焚くことが出来ない。今、その辛さを骨身に沁みて知ることになった。
「暁に見る千兵の.. 遺恨十年一剣を磨き.. 」イスラムの読経のようなビーズの唄を聴きながら、リナは少し首を傾げた。「ビーズ、今までの歌と節回しがちょっと違うわね」
「リナ、これはね、日本の戦国時代、ウエスギ・ケンシンという武将が川中島の敵陣地に夜襲をかけた時の様子をうたったものだ。馬の鞭音も立てないように静かに渡河して、敵陣に攻め込んだが、あと一歩の所で敵将を取り逃がしてしまった。十年一振りの剣を研ぎ磨いて、その機会を待ったのに、残念でならない、、確かそういう内容だったよ」
「そう、日本でも内戦があったの、知らなかったわ。土地の奪いあいと人の殺しあいは古今も東西も変わらないようね。人間ってそういう動物なのかしら」
「いや、そういう人間もいれば、そうでない人間もいる。そういう人間だけなら、人類は遠からず滅亡する、、しかし、すごく寒いね」
ふたりは濡れた服を脱ぎ、着替えて、毛布に包(くる)まった。しかし、一人で毛布に包まっていても胴震いは取れない。結局、毛布の中で身を寄せあって温めあうことになった。震えるリナの体を擦りながら、ビーズは「アンナだったら、ここでけしかけてくるところだな。こんな所で絶叫されたら、やばいよ」と可笑しくなって、くすっと笑った。
「ビーズ、どうしたの?」
「いや、何でもない。さあ、手足も温めてあげよう」
「ありがとう。あなたも擦ってあげる」
「うん、、いや、俺はいい」

朝になると馬に餌をやり、蹄鉄を(音を立てないように布を挟んで)叩き直し、体を拭いてやり、木々の暗がりに隠した。雑草や木枝でビニールシートに迷彩を施し、仮眠を取る。リナはビーズの胸の中で居心地よさそうに眠っているが、ビーズは時折りうとうとするだけで常に周囲の動きに気を配っていた。
夜になるとビニールシートを畳み、キルギスへの道を急いだ。夜と昼を逆さまにしたような毎日だったが、山越え、谷渡りを繰り返して、数日後にようやくタジク=キルギス国境の峰にさしかかった。
ここで去年の春、ビーズはアンナと夫婦の契りを交わした。
白い花を摘んでアンナに手渡した。ビーズにはそれが何年も昔のことのように思えた。
あの頃は自分の心も若かったような気がする。あれから、たくさんの人の死を見てきた。
あの時と同じ白い花が咲いていた。あの時と同じように強い風に揺れていた。花をあつめながらビーズは思った。これを節目にアンナと別れよう。
いつまでもアンナの亡霊を追いかけていては、リナと夫婦になれない。リナを幸せに出来ない。
リナは花を摘みながら思いに耽っているビーズにそっと近づき、耳元で「ビーズ、いつまでもアンナを忘れないでね。アンナと私だけを愛してくれたら、それでいいの。もしかしたら、時々アンナが私に乗り移って、あなたの前に出て来るかもしれないわよ。その時は絶対に気味悪がらないでね」と囁いた。
「ありがとう、リナ。本当にありがとう。でも、そうは行かない。俺も考えた。今、ここでアンナと別れる。アンナも分かってくれると思う」
「ビーズ、駄目よ。あなたは寝言でアンナの名前を呼んでいるのよ。アンナは姉だから、私はやきもちなんか焼かない。いつまでもアンナを忘れないでほしい。私の心からのお願いよ。あなたを死ぬほど愛している。私はあなたに愛されている。私、それで充分過ぎるほど幸せよ」
「分かった。ここで、二人だけの結婚式を挙げよう。ほら、ちいさいが花輪を作った。結婚指輪の代わりに受け取ってくれ」
「ありがとう、ビーズ。花の結婚指輪、すてきだわ。さすが、お医者さんだけあってとても器用ね。あなたが作ってくれた指輪だからいつまでもこの目と心に焼き付けておくわ」
一陣の爽風があたりを吹き抜けていった。「リナ、やったね!」「お二人さん、お幸せに!」リナにはアンナが祝福してくれているように思えた。

二人はキルギスの山に入った。目的地はまだまだ遠いが、気分は楽だった。少なくともタジクの政府軍兵や夜盗の恐怖は薄らいだ。
結局、一週間を超える長い旅だったが、だんだんと首都ビシケクの匂いが近づいてきた。
ビシケクまであと2~3時間というところで馬を降り、農家にお金を払って数日間、馬を預けることにした。
二人はリュックを背にビシケクに向かって歩いた。ポプラ並木が続き、そのはるか向うに雪の山脈が見えた。スイスのアルプスより美しかった。
ようやく首都ビシケクに入った。ビシケクは久しぶりに見る大都会だった。
無闇に人が多いように思えた。ビーズは髭を生やし、安物のサングラスをつけていたので、現地の人々に溶け込んでいた。
ホテル・ロータスという安宿に入った。トイレ、シャワーが共用だった。とにかく、久しぶりにリナと二人きりになれた。ホテルで身を整え、以前から見知りの大使館に向かった。白塗りの洒落た洋館だった。
ただ、大使館とはいえ、この時期は、在カザフ大使がキルギスの大使も兼務しており、大使館の出張所のようなものだった。館員に事情を説明したら、怪訝な顔で接客室に案内された。
ビーズは手記を見せ、「ご存知の事と思いますが、タジクでは内戦で多くの一般市民が殺されています。このままでは無意味な殺しあいが際限なく続くことになります。これを世界中の人々に訴え、すぐに止めさせなければなりません。私は現地で自らの意思で医療に携わっています。自分の実体験を手記にまとめました。これに証拠となる現場写真の入ったディスクを添えます。中には動画も入っています。それらを世界中のメディアに流したいと思って、ご相談に伺ったしだいです。同時に、当面の緊急必要品として医薬品と医療器をご援助いただければと思います。手記の最後の部分にもアピールの形で記載しておきましたが、ご助力いただけないでしょうか」
「分かりました。これから拝読させていただきますので、明日の午前10時に再度お出でください」という。
次の日10時に再度面会した。
「手記を読ませていただきました。写真も動画も見せていただきました。いやあ、大変なもんですね。本館(本館とは恐らく在カザフ大使館のことだろうが、ビーズはそれを確認するまでもなかろうと思い、尋ねなかった)とも相談したのですが、この件は慎重に扱わねばらないということになりまして、出来れば、手記とディスクをこちらに全てお引渡し願いたいのですが。で、この封筒には、いわゆる機密費というものですが、1万ドルほど入っております。ここにサインいただければ結構です」と受領証を出し、「で、先生のパスポートをコピーさせていただいてよろしいでしょうか」と何か物の売買のような流れになった。

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2010年12月22日

ビーズ (パミールのはてに) vol.24 伽耶雅人

「私のベッドを隣りの部屋に移したいが... 」
「私が嫌い?」
「いや、かわいい。好きだ。でも、君は私の妻の妹だ」
「好きなら、愛してほしい。私はあなたを愛している。でも、今までと同じようにお姉さんも愛してほしい。私はお姉さんが好きだから、昔と同じようにお姉さんを大事にしてほしい」という。ビーズにとっては不可解だった。「アンナを忘れてくれ」と言われるほうが分りやすかった。
「君とアンナを同時に愛せっていうのか」
「そうよ」
ビーズがこの村にやって来てすぐのことだが、彼はリナに愛馬ジュリエットを贈った。
この地方では男が女に馬や羊を贈ることはプロポーズであり、それを受け取ることがプロポーズを受けることである。ビーズがそれを知っていて高価な馬をプレゼントしてくれたのかどうかは分らない。半信半疑に揺れながら、リナの心はすでにビーズのものだった。
それに、もうひとつの事情がある。昔からこの地方では、両親さえ認めれば、姉と妹が一人の男を共通の夫とすることは決して不思議なことではなかった。一人の男が3~4人の姉妹すべてを妻とすることもあった。それが姉妹ではなく、親類の女でも、全く無縁の女であっても許された。
その前提として男はすべての妻を平等に愛し、生活を保障しなければならない。要するに、よほどの器量のある男でなければならない。
村人の話では「昔、この地方では(他の地方も同じだろうが)部族間の争いが絶えることなく、多くの男が戦闘で死んだ。そのため、女に対して男の数が極端に不足していた。嫁ぎ先のない不幸な女たちを救うために自然発生的に一夫多妻制が生まれ、アッラーの掟として世に認知された」そうだ。
社会主義ソ連の時代、一夫多妻は公式には否定された。しかし経済的な事情もあって、これは隠然と続けられていた。その場合、すべての子供は主婦(主たる妻)の子供として出生届けがなされた。時期が重なって生まれた場合は、あとの子の出生届けを遅らせた。
夜、ビーズが寝入ったのを見計らって、りナはアンナの遺影の前に立ち、「私、お姉さんに代わってビーズを命がけで愛すから、許してね」「彼はお姉さんに気兼ねしているみたい。お姉さんも協力してね」と語りかけていた。
リナの愛を知った日からビーズの心にはいつもリナがいた。
ただ、ビーズにとってアンナは長い間(とまで行かなかったが)苦楽をともにした古女房、、一方、リナは今やかけがえのない心の妻だった。「どうも、俺には(同時に複数の女性を愛す)器量がなさそうだ」

しばらくしてビーズは帰宅後、日記のようなものを書き始めた。
「何を書いているの」
「手記だ。いや、アピールというべきかな。私がキルギスに来て、タジクに入ってから、今までのことを嘘も誇張もなしに書き綴ろうと思う」
「それをどうするの」
「これを君と一緒にキルギスかどこかに持ち出して、メディアに載せようと思う。
世界中に真実を伝える。戦争当事者の両方にも伝える。戦争が弱い者をどんなに苦しめているか。世界中の人々に殺しあいをやめさせるよう訴える。以前、あるジャーナリストから『生の声が人を動かし、生の映像が世界を変える』と言われたことがある。私の実体験を基にしたアピールと自分で撮った映像を世界に発信しようと思う。難しいかな」
「いいえ、よく分るわ。あなた、ロシア語もうまくなったわ」
「そうか。ありがとう。それから、、こちらから払うものは何もないが、ここに医薬品や医療機、出来れば医師団を送り込んでもらうよう要請するつもりだ。もう医薬品の蓄えも底をついてきた。自分一人では既に限界だ。だから急いで手記とアピールをまとめる」
「すごい。それが出来れば最高じゃない。私、何でもする。言いつけてね。それから、一緒に旅に出れるって本当なの? すごく嬉しい。踊りだしたいほどよ」
「そうだ、一緒に行く。あのとき、アンナを連れて行かなかったことを後悔している。もう失敗は繰り返したくない」
「一緒に行けば、死ぬのも一緒ということね」
「そうだ。ともに生きよう。ビーデルと約束しただろう。この国を良くするって。生きてこの国を泣く者のいない国にするんだ」
リナはビーズが自分を連れて行くと言い出したとき確信した。「ビーズも私を愛している。本当に私は一緒に死んでもいい」と思った。
ビーズは患者が待つ「作業場」で働き、且つ寝る時間も惜しんで手記を書いた。
それから2週間ほど経って、ようやくキルギス向け出発の段取りがついた。
ビーズは村の主だった者を呼び、事情を説明することにした。
ビーズの考えを聞いて、リナは「そのまま喋っては駄目。彼らは復讐心に燃えている。それを止めようとしたら、必ず反撥が出る。下手をすれば刺されるかもしれない」という。
結局、村人にはアピールのことは言わず、「キルギスに医薬品や医療機の補給を頼みに行く」ということにした。村の皆が「餞別だ」と言って、ただでさえ不足している食料とキルギスの通貨を二人に渡してくれた。
「何かのために」とタジク人名の身分証明書(パスポート)も用意してくれた。爆撃で死んだ村人のパスポートだった。年恰好はビーズと同じぐらい、名前はイスティム・アト・ムハメドフと記されていた。その写真をビーズの写真に貼り替え、スタンプのような模様を書き込むと、偽造パスポートが出来上がった。ビーズは軍警の検問時やホテル・チェックインの際にこれを使えばいい。
イスティムの妻がリナに「これを持って行きなさい」と自分のパスポートを手渡してくれた。勿論、写真は貼り替え、スタンプのような模様が書き込まれていた。これでふたりは晴れて(書面上の)夫婦となった。
元気の良い若者たちが同行を申し込んできたが、ビーズは「暗視鏡を使って目的地まで夜行するから、目立たない方が良い。二人だけで行く」と断った。
彼らは一旦引き下がったが、村の老人たちに「お医者さんに死なれては困る。彼はアラーが我々に遣わされた神の使者だ。お前らの命を賭けて守れ」と命令され、ビーズたちに悟られないように警護することにした。若者たちは二人の前後を固めることにした。
そういう事情を知らないビーズはリナの身に危険が及ばないよう用心深く行動した。

村人たちはビーズとリナが一緒に行くこと、つまりビーズとリナが夫婦になることは当然のことと受けとめていた。彼らから見れば、ビーズの妻アンナの妹なら当然の義務でもあった。
なによりも村人はビーズがこの村に永住してくれることを望んだ。それにはこの村で所帯を持ってもらわねばならない。村人にとってリナはビーズの新妻としてまさに申し分ない存在だった。
村人はリナをダーマ(奥さん)と呼ぶようになった。正式に結婚もしていないビーズは少し訝(いぶか)しく感じたが、リナがそれに満足しているなら、それでもいいと思った。とにかく、リナが明るさを取り戻してくれるのが嬉しかった。

リナは甲斐甲斐しく二人分の着替えと毛布、数日分のチーズ、パン、ワインを用意し、二つのリュックサックに詰め込んだ。そして、出発の時が来た。
これは彼女にとっては今までの人生で最上の時だった。いつ死んでも構わないと思っている彼女にとって、道中は幸せと感動の連続だった。見る物すべてが新鮮だった。夜明け前の山々も、野の花も、水の流れも。
日中は迷彩色のビニールシートの下で仮眠を取ったり、食事をしたり、リナからタジクの歌を教わったりして時を過ごした。ビーズはリナの歌を聴いていてタジク語の美しさに気付いた。「これなら、苦労して憶える価値はある」と思った。

出発して数日後、二人が身を潜める森の上空をヘリが飛んでゆくのが見えた。
ロシア軍と武装イスラムとの激戦地はアフガン国境に近いタジクの南部地方で、東部僻地のパミール高原は比較的平穏だった。しかし、最近はヘリの飛来回数が増えた。それに、一編隊の機数も増えた。2~3機だったのが5~6機に増えている。今まで偵察が主だったが、攻撃編隊に変わっている。ビーズはヘリの編隊を見上げながら「これはおかしな事になりそうだ」と暗い気持ちになった。
事態はビーズが心配した通りだった。現在、政府軍=ロシア軍は首都での連続爆破テロの首謀者、コマンジール・イズミールを血眼になって追いかけている。コマンジールとは司令官、即ち首領、集団のボスという意味だ。そのコマンジール・イズミールが東部パミール高原に身を潜めているという噂が流れた。ヘリの飛来が増えたのはイズミールとその一味の探索に関係していた。

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2010年12月20日

ビーズ (パミールのはてに) vol.23 伽耶雅人

リナは顔を赤らめ、「ビーズ、私を救ってくれて有難う」と言う。
「まだ救っていない。これからだ。リナ、いいか、その棒を取って、私の手に渡してくれ」
リナの体は、耳元で囁くビーズの声に反応して小刻みに震えた。
彼女は目を閉じて、懸命に手を延ばした。棒を握った。
ビーズは右手でリナから棒を受け取ると、それを崩れた壁の端に押し当て、あらん限りの力で押し、キャビネットと体ごと左にずらした。
キャビネットと体が少しずれた瞬間、両腕に自由が戻った。そして彼は腕と足の力で一気にキャビネットを持ち上げた。「さあ、ここから抜け出るんだ、リナ」
「私、もうだめ。ビーズ、あなたと離れたくない」
バターン!とキャビネットが再びビーズの背の上に落ちてきた。彼はショックを受け、取り乱してしまった。必死の「腕立て伏せ」をもう一度やる羽目になった。
再度、あらん限りの力でキャビネットを持ち上げ、その下からまずリナを、そしてリナの助けを借りてビーズも無事に抜け出したが、心は散り散りに乱れたままだった。
気が付けば、二人は破壊された診療所の外に出ていた。そしてビーデルを探した。ビーデルはゴミとホコリの中で腹を裂かれ、血だらけになっていた。ロケット弾の爆風か破片でやられたのだろう。
「ビーズ、僕の本は無事かな」
「大丈夫だよ。今、何も喋らない方が良い」
「お母さんが心配だ」
「ベーラも無事だよ。ビーデル、山に蜂蜜を取りに行こう。タジクの歴史も教えてくれ。一緒にこの国をよくするんだ」
「有難う、ビーズ」
リナが「ビーデル、ビーデル」と叫んだ。しかし、ビーデルはすでに息絶えていた。
その顔にはあどけない少年の笑みが浮かんでいた。
ビーズは「なぜ、こんな子供まで殺さねばならないのか」と声を震わせた。
うめき声を上げていた患者も息絶えていた。床の上に鮮やかな血が流れていた。
ベーラのことが心配になった。
リナと走った。村の所々に火や煙が立ち、悲痛な泣き声があちこちから聞こえていた。
ビーズとリナはベーラの家に着いた。
彼女も死んでいた。攻撃ヘリからの機銃掃射を受けて倒れていた。頭と腰が砕かれていた。
路上には機銃弾の走った跡が残っていた。最初ここに来たときと同じように、庭には色とりどりの花が咲き、葡萄の蔓がその上を覆っていた。だが、もう女主人はいない。
ベーラに何の罪があったのだろう。少なくとも彼女はイスラム・ゲリラではない。
「許せない。俺も闘う。奴らをぶっ殺してやる」
「ビーズ、あなたは人を殺しては駄目。お願い、殺しあいからは何も生まれない。
憎しみと殺しあいがいつまでも続くだけ。お願い、仕返しなど考えないで、人を救って」
リナは一瞬にして身寄りをすべて失った。どんなに辛かろう。それでも復讐ではなく、人を救えと言う。リナの言葉がビーズの心に痛いほど響いた。そうだ、俺もそのためにここに来た。あの時、俺が自殺を思いとどまったのは仕返しのためではない。仕返しなら誰にでも出来る。だが、それは本当の聖戦(ジハード)ではない。血みどろになって一人でも多くの人を救うことだ。それが俺のジハードだ。
「分かった。リナの言う通りだ。今から、何も考えずブッチャー(肉切り屋)を始める。リナ、手術を手伝ってくれ。先ず、生きている者で救助隊を作ろう。皆に呼びかけてくれ。負傷者を村の真ん中に集めよう。それに食料確保だ」
「診療所の薬は全滅したんじゃないの」
「山の洞穴に少し蓄えてある。当座は大丈夫だろう」

負傷者が村の真ん中に集められると、ビーズ達の精力的な作業が始まった。
ビーズとリナは寝る間もなく、血だらけ、肉だらけで働いた。ビーズが日本から持参した薬剤は最初の段階であっという間になくなってしまった。重傷患者は死んでいった。村のあちこちの火は消えたが、泣き声は夜遅くまで続いた。新たに運ばれて来た者も、かなりの数が死んでいった。
負傷した子供が出血多量で死にかけている。血液型も何も分からない。
母親が「私の血をこの子に輸血してください。この子の出血を止めてください。助けてください、神さま」と泣き叫ぶ。
ビーズが「血液型が合わず拒絶反応を起こすかもしれない、危険だ。それに輸血しても、この状態では.. 」と言うと、傍のボロ毛布の上に寝かされていた四十過ぎの男が「わしは0型だから、大丈夫だ。必要なだけ血を抜いてくれ。大事な女房と子供はわしの目の前で吹っ飛ばされた。今更、生き残る気もしない。さあ、やってくれ」と服の腕を捲くりあげた。
「アリョーシカ、助かったね。神さまにお願いが通じたんだ。ねえ、アリョーシ、アリョーシ、目を開けて。アリョーシ、息をしとくれ。死んじゃいやだ。神さま、お願い.. 」
ビーズはアリョーシカの瞳孔に光を当て、首を横に振った。
生き残った者は、子供も老人も敵を呪い、復讐を誓った。
ビーズは思った。死ぬも地獄、生きるも地獄か。家を焼かれ、家族を殺される。これでは復讐を考えない方がおかしいな。しかし、それでは、確かに際限のない殺しあいが続く。
殺しあいを止めさせなければならない。ただ、どうすれば良いのか、、答えはなかった。
ビーズはこの地獄絵も写真にしておいた。

ただ、このような修羅場でも3~4日経つと、それなりに落ちついて来る。死ぬ者と生き残る者の区別がはっきりしてくる。悲しみが内向する。
リナは肉切り作業が一段落した頃から悲しみを内向させ始めた。
母と弟の遺体を庭の隅に並べて埋め、丸石の墓を作った。アンナの墓もその傍に移した。リナは「ひとりで寝るのが恐い」という。ビーズはリナの家に移り住み、同じ部屋でベッドを二台並べた。
朝になっても彼女は家を出ず、何時間も黙って墓を見つめていた。
ビーズはリナをそのままにして作業場に通った。夜、家に帰るとマニ車があの日と同じ乾いた音を立てていた。あの日、ベーラはアンナの死を悼んで泣いた。今、リナは家族全員を失い、一人ぼっちになってしまった。

夏の雨が降る日、ビーズはいつものように夜遅く帰宅して、バタンキューと寝入った。
夜の3時頃、隣りのベッドで泣く声がする。ビーズは起き上がり、そっとリナのベッドに入り、彼女を抱きしめた。リナは一瞬、ビクッと体を緊張させたが、ビーズの気持ちが通じたのか、緊張を解き、赤ん坊が母親に甘えるようにビーズの胸に顔をうずめてきた。ビーズはリナが泣きやみ、寝入るまで彼女を抱きしめていた。

リナが目覚めるとビーズは既にいなかった。彼女はビーズの昼食を作り、作業場に向かった。そして、これを切っ掛けに彼女はそのまま作業場に残り、再びビーズの仕事を手伝うようになった。少しずつ明るさを取り戻してきた。
こういう生活が何日か続いたが、ビーズはリナが傍で寝ていることに耐えられなくなってきた。

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2010年12月17日

ビーズ (パミールのはてに) vol.22 伽耶雅人

ビーズはベーラの家から出ると、二頭の馬が待つ場所に向かった。
彼は馬の背から食料の入った袋を下ろし、家族への「おみやげ」を手渡し、元診療所に向かった。家族とはアンナの母親ベーラ、アンナの妹リナ、弟ビーデルの三人。ビーズにとって13~14歳の少年ビーデルは弟というより甥っ子という感じだが、その少年がビーズを追いかけて来て、自分も診療所で働きたい。勉強も教えてほしいという。
「ビーデル、君がこの地方の言葉を教えてくれるなら、OKしよう」
「やったあ!僕、しっかり頑張るから。お兄さん、よろしくお願いします!」
ビーズは「お兄さん」と呼ばれて、初めて弟を持つことの感動に胸がじんとした。

診療所の傍にアンナの墓をつくった。河原の丸石を選んだ。
その下にアンナの形見をビニール袋に詰めて埋めた。ビーズが片時も離さなかったアンナの毛髪と黒い眼帯だった。墓石をじっと見つめていたら、そこにアンナの嬉しそうな顔が見えてきた。「ビーズ、あたしの家族をよろしくね」と微笑んでいるようだった。

ビーズは地の果て、パミールの山奥で医療活動を始めた。
山の斜面に横穴を掘り、そこに貴重な医薬品をしまっておいた。住民の平均寿命は56歳、しかもこれは内戦が始まる前の数値だという。現在の平均寿命は分らない。
栄養状態が悪く、子供の死亡率が高い。死ななくてもいい人が多く病で死んでいる。
ビーズ診療所を開くと患者はすぐに集まった。山の悪路を杖つきながらやって来る者もいた。ビーズは外科、内科、循環器、小児科、婦人科、何でも屋の無医村医師となった。日本から持ち込んだ医薬品は新薬に慣れていない人々には効果抜群だった。
患者達はお金を払えなかったが、鶏や食料を運んでくれた。ベーラがその鶏や食料を受け取り、当然のように貧しい人々に分け与えた。配達にはビーズも手伝った。途中、ベーラは夕方の路傍で寒さに震えている老婆に自分の服を脱ぎ与えた。ビーズは「自分も寒かろうに、、これが喜捨の心というものか」と感心した。
弟のビーデルもよく働いた。診療所の仕事を多いに助けてくれた。それに、彼は何事にも興味を持った。すこしでも暇が出来ると、数学、理科、医学関係の質問を矢継ぎ早に出してくる。
リナは最初の印象どおり、はにかみ屋で口数が少なかった。顔立ちも性格も、情熱的な姉のアンナと対称的だった。リナは焼きたてのナン(パン)、プロフ(ピラフ)、それにヨーグルトなどを診療所に運んでくれた。が、ビーズとは顔も会わさず帰ることが多かった。
或る時、ビーズがビーデルに「君は理数系が好きだね。将来、その方向に進みたいのかね」と尋ねた。「いや、理数系も面白いけど、歴史や文学の方が好きだ。黙っていたけど、歴史や文学はお姉さんに教わっている。トルストイの『戦争と平和』も、ショーロホフの『静かなるドン』も持っているよ」という。
「お姉さんとは、あのリナのことか」ビーズには意外だった。
「僕はこの国を良くしたい。僕はこの国を泣く者のいない国にしたい。皆が笑って暮らせる国にするんだ。そのために色々なことを勉強したい」という。ビーズはびっくりした。13~14歳の頃、俺はそんなことを考えただろうか。

ビーデルは手足の長い蚊トンボのような少年だ。山に登って蜂蜜を取るのが大好きだという。「僕だけの秘密の場所だけど、今度、蜂蜜取りに連れてってあげる。その代わり、日本や世界のことを教えてよ。あのね、僕の体には世界中の人の血が流れているんだよ。ペルシャ、チベット、ギリシャ、ロシア、ウイグルやモンゴルまでね。蜂蜜は蜂の巣を煙で燻(いぶ)して取るんだ。ものすごく美味しいよ」
ビーズは「こういう子がこの国を変える。これからの国の歴史を創るのだろう」と思った。
診療所の仕事は概して順調だった。驚くほど遠くからビーズの診療所にやってくる。高い山脈の多い国だ。山向うの里に行くには、山ひだや川筋に沿って数キロ、数十キロも進み、急な峠道に入る。高山では酸素濃度が低いから息が切れる。ゆっくり峠を越えて、ゆっくり谷間に下る。それを何度も繰り返してようやく目的地に到着する。
時々、負傷者が数十人名規模で担ぎ込まれる。そのときは、診療所はてんてこ舞いする。
外科手術、輸血などが必要で、どうしても医薬品、設備の不足に悩まされる。
それに、寝かせる場所や食事の世話まで必要となる。
ビーズにとって最大の関心事の医薬品については、意外なことに食料と同様、患者やその家族が時々持ち込んでくる。陸の孤島に住む者は自衛のために医薬品を備蓄しているようだ。ただ、その殆どがはるか昔に期限切れしており、使い物にはならない。しかし、それでもないよりはマシだった。
その多くは解熱、鎮痛剤で、抗生剤は宝石以上の扱いを受けていた。彼らの備蓄品の中には何やらいかがわしいものも入っていた。万能とされる薬草はまだましなほうで、聖水というわけの分からない濁り水、動物の干乾びた内臓や骨格の一部などが入っていた。おまじないやお札のようなものも幅を利かせていた。そういうわけだから、ビーズの徒手空拳の「指圧療法」は多いに歓迎された。診療所の廊下が当面の病室となった。食事はベーラやリナ、それに村人が色々と世話をしてくれた。

夏も近づく頃にはビーデルは助手として欠かせない存在になっていた。
ビーズのタジク語はなかなか上手にならなかった。「まず発音が難しいし、文法が理解不能、というより文法がない」というのがビーズの言いわけだった。リナは、相変わらず口数は少ないが、少しずつビーズに打ち解けてきた。ビーズの言いわけをくすくす笑いながら聞いていた。
アンナは挑戦的な真っ黒の瞳だったが、リナの瞳は澄んだ青。性格もアンナは激しく能動的だったが、リナははにかみ屋で受動的だった。同じ姉妹で、なぜこうも違うのかと不思議だった。
ビーズはリナに愛馬ジュリエットを贈った。リナは頬を紅潮させると、ジュリエットに飛び乗って駆け出した。かなり遠くからビーズに手を振った。
リナとジュリエットは一体となって夕陽の中に輝いていた。その姿を見て、ビーズはまた意外さを感じた。あのはにかみ屋のリナが颯爽とした「女馬賊」となった。

パミールの辺地で平和な日々が続いた或る日、攻撃ヘリの編隊がやって来た。
5~6機が束になって高原の村を襲った。ロケット弾が放物線の煙を吐いて地上に降って来た。目につく建物や橋などが破壊された。
ビーズの診療所も例外ではなかった。ちょうどリナが食事を運んできてくれた時だった。
雷鳴が遠くから近くに移動してくるように、ロケット弾の落下音が近づいて来た。
「危ない」と思った瞬間、ビーズはリナに飛び掛かり、床に押し倒した。
すぐ近くでヘリから発射されたロケット弾が炸裂した。
あたりに建物やガラスの破片が飛び散った。ビーズの背に大きなキャビネット(薬品棚)が落ちて来た。その上に倒壊した隔壁の一部が乗っているようだった。すごく重い。
診療所の中はゴミだらけ、ホコリだらけとなった。患者たちのうめき声が聞こえる。
キャビネットの下でビーズはもがいたが、身動きが取れなかった。その真下にリナがいる。
彼女は無事だった。目を閉じていた。
上から見下ろすと、それは天使のようにかわいい顔だった。ビーズが「リナ」と呼ぶと、彼女ははっと目を開いた。ビーズは澄んだ青い瞳に吸い込まれそうな錯覚をおぼえた。
彼女の胸の鼓動がビーズの胸にじかに伝わって来る。
「リナ、腕が自由にならない。君の手でこの棚を少し上に押してくれ。そうすれば、私の腕が自由になる。なんとか抜け出すことが出来る」
リナは必死でキャビネットを持ち上げようと努力したが、持ち上がらない。体は汗でびっしょり濡れていた。ビーズはキャビネットの下で無理やり体を反らせていたが、堪え切れず力を抜いた。彼は顔をすこし横に反らせたが、そのとき彼の唇がリナの耳元に触れた。
リナの体に衝撃が走った。「ううっ」とうめき声をあげた。ビーズが息をする毎にリナは動けない体をよじらせた。ビーズはもう一度もがいた。キャビネットはなんとも動かない。二人の汗は薄い衣服を通して混ざり合った。リナの体はやさしかった。

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2010年12月15日

ビーズ (パミールのはてに) vol.21 伽耶雅人

ウズベクとタジクの国境沿いのいたる所にウズベク側の哨所が配置されていた。彼らはタジクからの難民の流入阻止を主目的としていた。タジクへの逆流は(パスポートと米ドルさえあれば)さほど困難ではなかった。
タジク領に入ると、ビーズは出来る限り昼間は動かず、夜間にパミールへの道を辿った。この時、暗視望遠鏡が多いに役立った。
暗い道を暫く進むと、川端に十個ほどの死体が転がっていた。後ろ手に縛られ、腹をえぐられ、首を斬り落とされていた。
ビーズは思わず掌を合わせた。死体は体格からしてロシア人だと見当がついた。ロシア軍の斥候隊だろうか。少人数の一隊が反政府軍の罠に遭ったのだろう。捕らえられ、残酷な仕打ちを受けていた。ビーズは辛かった。自分は反政府軍の自発的な協力者だった。だが、こんな殺し方を正当化できるほど狂ってはいない。
ビーズは「済まない。安らかに眠ってくれ」と語りかけながら、首なしの死体を写し続けていた。山中は寒かった。ビーズは物思いに耽りつつ、独り旅を続けた。
武装イスラムの残忍さや極端な男尊女卑の考え方にはついて行けないが、イスラムにはイスラムなりの存在理由があるのだろうと思った。誰かから聞いたことだが「極端な貧困、病苦、、どん底に喘ぐ者、まさに救いのない者にとってアッラーこそが心の安寧、死後の悦楽を約束してくれる唯一無二の存在だ。アッラーのために命を捧げることができれば至上の幸福」だそうた。少し疑問を感じるが、それは自分が今まで恵まれ過ぎていたせいかもしれない。
そう言えば、以前アンナはイスラムには「喜捨」という言葉があると言っていた。「富める者は貧しき者に施しをする義務を負う。貧者からすれば、富者に施しという善を行わせ、神への道を歩ませてやったことになる。ゆえに貧者が施しを受けることも、即ち善であり美徳である」そうだ。ちょっと分りにくい理屈だが、喜捨の精神は学ぶべきだと思う。
いずれにせよ、異文化に対して外部から無理矢理に強制や矯正を加えようとすれば必ず歪(ひずみ)が生じる。彼らに何かについて働きかけようと思うなら、最低一年間はそこで暮して彼らを知ることから始めるべきだろう、、
彼はあれやこれや考えながら、時々は道に迷いながらも、東のパミールを目指した。
ウズベク=タジクの国境を越えてから一週間ほど経って、ようやく見覚えのある場所に出た。
以前アンナと一緒に北のキルギスからパミールに入った道だった。この道を南下すればパミール高原、アンナの母親の住む村がある。
昼間、ビーズが小高い森の中に隠れていると、人の群れが道路を北上しているのが見えた。キルギスへの難民だ。
見慣れた風景だった。羊、驢馬、子供を連れた者、襤褸袋を担ぐ者、家財一式を曳く者、着ぶくれの中年女、老人、負傷者、総勢40~50人がタジク南部から逃れ出て、北のキルギスに向かっている。彼らとビーズの距離は300~400メートルあった。
ビーズは彼らが無事に逃げ切ることを祈った。だが、祈りは虚しかった。
馬に乗った兵が山の陰からいきなり飛び出し、難民の群れの前後を塞いだ。
その格好からして20人ほどの政府軍の小隊だった。いや、もしかしたら「人民戦線」とかいう強盗集団かもしれない。小隊のボスらしき者が手を挙げた。
ビーズは危険を感じ、ロミオとジュリエットに枚(ばい)をふくませた。
難民の群れは小隊に対し羊のように従順だった。荷物を道路に降ろして整列した。
10数名の兵が銃を構えるなか、難民の持ち物検査、身体検査が始まった。
武器、金品を調べているようだった。ビーズはその光景を写真に収めた。

群れの中から逃げ出す者がいた。ビーズは撮影を動画に切り替えた。パンパンという乾いた音が聞こえて来た。逃げた男は道路脇に転び、そのまま動かなくなった。何もなかったように、検査は続けられた。数分後、めぼしい物は一箇所にまとめられた。
あろうことか、隊長が右手を挙げ、空に円を描くと、兵たちの銃は難民の群れに向けられ、一斉に火を吹いた。青白い煙があたりを覆った。
ロミオとジュリエットは一瞬、慄いて後ずさりした。が、彼らはすぐにおとなしくなった。遠くで行われている人間の殺戮には殆んど関心がないのか、時々、銃声に反応して耳をピクピクさせる程度だった。
だが、死の恐怖を知る人間にとってそれは地獄絵だった。憐れな難民は道路上にばたばたと倒れた。当たりどころが悪く、即死をまぬがれた者は必死で逃れようとする。
悲鳴がビーズの所まで聞こえて来る。ビーズは目を血走らせる。道路上では第二撃、第三撃が続いた。ビーズはそれを撮りまくった。
数秒後、白煙は消え、あたりは静かになった。難民から金品を奪い取った兵たちは羊、驢馬も忘れず連れ去って行った。道路上には死体と襤褸が散乱していた。
兵達が去った後、ビーズは道路に駆け下り、死体を調べた。生存者は一人もいなかった。
表情はさまざまだった。
驚いた顔、表情のない顔、恐怖に引き攣った顔、髪まで血に濡れた顔。子を抱く親、親にしがみつく子、、中には笑い顔もあった。だが、決して嬉しくて笑っているのではない。
血の匂いが鼻を突いた。ビーズは一人一人に自分の無力を詫び、目を閉じてやり、両手を合わせてやった。彼は夜とともに南下を続けた。
本道から脇道に入り、何度か冷たい川を渡った。
直線距離はさほどでもないが、山襞(ひだ)の多い地形では想像を絶するほどの遠距離となる。
南下道路に入ってから三夜を山襞に沿って蛇行し、四日目の朝にようやくアンナの家に着いた。母親、妹と弟が出迎えてくれた。
母親の名はベーラ、妹はリナ、弟はビーデル。
彼らはビーズを見て、喜びとともに、一瞬あせりの色を見せた。
母のベーラがビーズを居間に導き、お茶を出してくれた。居間にはアンナの父親の遺影、その傍にはマニ車の入った木箱が昔のままに置かれていた。
「アンナはどこ?」
「アンナはいない」
ビーズは白鬚の男が息を引取る前に語ってくれたことを包み隠さず話した。
政府軍のトラック部隊が反政府ゲリラの村トプチャクに攻め込んだ。トプチャクは全滅した。政府軍の大佐がアンナに言い寄った。アンナは答える代わりに大佐の顔に唾を吐いた。大佐はアンナを刺し殺した。医薬品を求めて旅に出ていたビーズは後になってアンナの死を知った。
「私はロシア軍のヘリで首都ドシャンベに送られ、日本に帰された。私がここに戻って来たのは、家族にアンナの死を伝えねばならないと思ったからだ。それに、ここにアンナの墓をつくり、形見の品を埋めたい。その傍で医者をしたい。今、ロシア軍や政府軍に仕返しをする気はない。人を殺すのではなく、人を救いたい。私も人を殺した。そして、自分の無分別から多くを死なせた。せめてもの償いに、医者として一人でも多くの人を助けたい」
家族三人ともアンナの死はあまりに突然で、ただ茫然とするだけだった。
妹のリナは黙って部屋を出て行った。それを追うように弟ビーデルも出て行った。
ベーラは柱にすがりついて泣いた。長い時間泣いた。ビーズは黙って座っていた。
まもなくしてベーラは涙をぬぐい、ビーズのお茶をいれ直し、目をつむって木箱の中のマニ車を何度か廻した。マニ車はカラカラと乾いた音を立てた。
「分かったわ。ここから30分ほど歩いた所に、昔ロシア人の医者がいた診療所がある。
今は何もないけど、そこでお医者さんをすればいい。ここには医者がいないから、きっとみんな喜ぶわ。私達も出来るだけお手伝いする。アンナの墓はその近くにつくりましょう。あの子は一番大事なものを、命をかけて守ったのよ。あなたのお蔭であの子は幸せだった。必ずあなたを守ってくれるわ。頑張ってね」
ビーズは黙って頷いた。

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2010年12月13日

ビーズ (パミールのはてに) vol.20 伽耶雅人

昔よく思った。なぜ自分という意識を持った物体がここにあるのだろう。
自分はどこからこの世にやって来たのだろう。自分が死んだらどこに行くのだろう。いくら考えても、答えが出なかった。無から生まれ、一瞬光り、無に戻るのか。それも良かろう。俺にとってアンナと一緒にいた時が一瞬の光だった。今、アンナのいないこの世にいても、ただ虚しいだけだ。
頂上に着いたら、北方向に延びる尾根を縦走する。縦走の途中、確か「剣が峰」だったと思う。尖った峰がある。そこから思いきり崖下に飛び込ぶ。それでお仕舞いだ。お金はタクシーの運ちゃんに全てやれば良かったな...
ビーズはぼそぼそと喋りながら、頂上に向かう伽羅木の道を歩んだ。頂上までまだかなりの距離がある。西から寒風が吹き上げていた。風が背の低い伽羅木に当たって唸りを上げた。
「ビーズ、ビーズ」と呼んでいる。悲しそうなアンナの声だった。
暗い空もうなり声をあげていた。戦死したユーラ、サラーム、ヨシフたちの声だった。「ビーズ、ビーズ」と唸る。冷たい風に誘われて涙が頬を伝わった。ビーズは暫くの間、頭をうな垂れていたが、ようやく思い切ったように涙を拭くと、唸る風に顔を向け、「君たちを無意味に死なせた。君たちだけでない。自分の愚かな思いつきで、死なせなくても良い人々をたくさん死なせてしまった。取り調べの時、人を殺したことを言わなかった。アンナのことさえ一言も口にしなかった。結果を怖れ、同時に自分を責め、そして逃げた。何も考えまいとした。自殺してしまえば、この気持ちから解放されると思った」
「俺はとんでもない食わせ者だった。嘘つきだった。少しでも君たちに申し訳ないことをしたと思うなら、死ぬ前にやるべきことがあるはずだ。そうだ、せめてもの償いに、医者なら、生きて、一人でも多くの人の命を助けることだ。人生が一瞬の光なら、その一瞬を思い切り輝かせて燃えつきればいい、、」
風が強まり、「ビーズ、ビーズ」とアンナが呼びかける。
「アンナ、待っていてくれ。俺はもう逃げない」
だらだら坂はまだ続いているが、ビーズの歩調は早くなった。
頂上に着いた。風は冷たく、胴震いは止まらないが、心は熱かった。周囲の山々がだんだんと青黒い輪郭を現してきた。眼下の雲海はビーズの心をパミールの高原に瞬間移動させた。彼は残った水を一気に飲み乾した。

山を降りたビーズは、ホテルで一日休んで大阪に向かった。
大阪では、自分はゴミの一粒にしかないことを痛感した。こんなに多くの人々が不機嫌な顔で出たり入ったりして生活している。白ありの蟻塚を連想した。
いや、ここはそれ以下かもしれない。お互いが敵でも味方でもない。ただ、互いに目障りな存在に過ぎない。熱い涙も、心からの笑い声も聞こえない。生きている実感のない世界だ。
人の匂いが恋しくて、大阪の通天閣近くの下町でトイレ共用の安ホテルを見つけ、そこを根城にした。ロシア語会話の本やテープを買い込み、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら、心の中のアンナを相手に会話の勉強を続けた。

ある日、新聞広告で「シルクロード一週間の旅」を見つけた。
旅行会社にパスポートとビザ用写真を渡し、お金を払った。一ヶ月ちょっと待たされた。
この間に、大阪の道修町に行き医薬品や医療器を買いあさり、日本橋の外れの電器屋で赤外線(暗視)望遠鏡を買い、口髭を蓄えた。
日本では赤外線望遠鏡は夜間の「覗き見」が主用途らしく、店にはいかがわしい雰囲気が漂っていた。これを買うにはかなりの勇気を要した。

ようやく出発の時が来た。春先、シーズンオフのツアーだった。
韓国ソウル経由でウズベクの首都タシケントに入った。スーツケース一杯に積め込んだ医薬品はタシケント税関で引っ掛かる可能性がある。袖の下(100ドル札)をいつでも手渡せるよう用意していたが、団体旅行のおかげで殆どチェックも受けずに入国出来た。
ツアー客全員はタシケントで一泊し、翌日からサマルカンドやブハラなど名所旧跡を廻ることになっていた。

ビーズは二日目のサマルカンドのホテルから大きなリュックサックを持って抜け出し、タクシーを拾ってタジクとの国境近くの小さな町まで走らせた。町の中でバザール(青空市場)を探した。
そこで安物のサングラス、帽子、ジャンパーにズボン、セーター、毛布、それに雌雄の馬と食料、馬の餌も買った。かなりの大荷物になった。
雄馬はロミオ、雌馬はジュリエットと名付けた。ジュリエットはおとなしく、従順そうだったので、彼女に荷物を担がせることにした。馬を買うついでに、パミール高原・ブルガへの道を尋ねた。「南のアムダリア川沿いに東に進めばいいと思うが、安全な近道を教えてくれないか」
馬の売人はビーズを人気のない場所に連れて行き、「ブルガに行くなら、護身用にピストルを買え。弾丸1ケースつきで100ドルだ。裏街道を教えてやるから20ドル乗せろ」という。「言い値」を受けると馬鹿にされ、付け込まれるから、色々と「難癖」をつけた上、合計80ドルで決めた。
売人はそれでも半分以上は儲けになっているはずだ。「神のお加護を」と嬉しそうだった。
彼は棒切れで砂地にパミール・ブルガへの裏街道を描いてくれた。ビーズが思っていた南ルートではなく、北ルートだった。地面に描いた地図を指差しながら、このあたりはイスラム・スンニ派が多いから外国人には危険だとか、ここにはロシア軍基地があるから、ここを避けてこっちの山道に入ったほうがいいとか、地方勢力の動向まで教えてくれた。
例えば、タジク南部のクロブ州はサンガク・サファロフが仕切っているから、ここは避けた方がいいという。サファロフとは、ソ連時代に殺人、強盗の罪で20年以上監獄に入っていた男だそうだ。今は体制派の重鎮となって「人民戦線」という武装集団を組織している。「こういう手合いは軍隊より残虐で凶暴だから、とにかくクロブ州は迂回したほうがいい」という。
思ったよりも複雑で距離があることに気付き、食料をさらに買い足した。馬の売人にあと20ドル足してやった。 
売人は喜び、別れ際に「雪のなかでは役にたつぜ」と中国製の白いビニール製のマントをビーズにプレゼントしてくれた。実際、これは日中に雪の中で身を隠すのに多いに役立った。
重い荷物は、ロミオにも担がせることにした。アンナと旅したときは夢心地だったが、今は一人と二頭で内戦の辺境に忍び込む。しかし、白銀の山々は絶景だった。
それはアルプスの山より遠く、深く、荒々しかった。
この時期、寒さと積雪のためロシア軍も政府軍も陣地を固め、大部隊の移動や地上戦は手控えている。陣固めは主に対人地雷に頼っている。
地雷には、新式と旧式がある。
新式にはタイマーが内臓されており、一定の時期が来ると爆発しなくなる。旧式はいつまでも、爆発の危険が消えない。
ここで使われている地雷はすべて安価な旧式だ。旧式の中で最もたちの悪いのは人間の体重にのみ反応する対人地雷だ。これはローラー式の地雷除去車では爆破処理が出来ない。現在、世界中で一般人の殺傷事故を起こしているのも多くはこの種の旧式の対人地雷だ。

春先、極寒と積雪で身動きが取れないロシア軍は攻撃ヘリやジェット機による「空撃」に重点を置いている。
ビーズが木陰や物陰にひそんでいると、ヘリの爆音が峰の向こうからタンタンタンとこだまして来ることがある。普通の機関銃は「パリバリバリ」という射撃音を立てるが、攻撃ヘリの機関砲は「ドドドッ」と凄まじい音を立てる。
遠くからヘリのエンジン音を聞くと、ビーズの瞼の裏にユーラやサラームが粉微塵にされた光景がフラッシュバックしてくる。もう二度と見たくない。

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2010年12月10日

ビーズ (パミールのはてに) vol.19 伽耶雅人

「なまの声、なまの映像が人々を動かし、世界を変える、か。マリオは喜ぶかな」
ビーズは財布の中に入れていたディスクをマリオ・ダルヴォールに送ってやることにした。
「以前、希望されていたなまの映像を送ります。タジクの平和の一助になれば幸せです」と書き添えてホテルのフロントに郵送を頼んだ。ちゃんと届くのかと心配になるほど郵送料は安かった。
ビーズは東京をあまり知らないが、東京駅だけは分かる。タクシーを拾って、東京駅に向かった。東京駅に着いたら、急に思い立って切符と駅弁を買い新幹線に乗った。
岡山駅でローカル線に乗り換え、山陰の小都市を目指した。列車が中国山脈を越えると、暗い雨が降っていた。列車は雨の中、急坂を転げ落ちるように走った。
駅を降りて、むかし田中医院があった漁港町行きのバスに乗った。
一時間近くかかって町に着いた。最後のバス停で降り、秋雨と風の中を歩いた。
風景は変わっていた。いや、彼の目が変わっていた。人懐っこかった町の佇まいが今はひどく味気なく、疎遠なものに映った。古巣に帰って来たという気持ちは全く湧かなかった。田中医院は駐車場になっていた。ここにはもう自分のいる場所はないと感じた。
近くで美味しくない昼食を取り、折り返しのバスに乗って漁港町を離れ、Y市に向かった。
城跡のある山陰の小都市はビーズにとって思い出の多い場所だった。
だが、漁港町と同じで昔の面影は感じられなかった。旧市街の道路の狭さだけが意外だった。駅前のホテルで一泊してから帰ることにした。帰ると言っても、あてはなかった。
あてはないが、大阪あたりに出てみようかと思った。
朝になると雨があがり、すがすがしい秋晴れとなった。
ホテルの受付け嬢が「今日はこの町で一番の東山神社のお祭りですから、是非お参りになられてはいかがですか」と言ってくれた。そう言えば東山祭りの笛は懐かしい。
どうせ、あてのない旅だ。散歩がてらにお参りしてみよう。
小さい女の子を連れた男女が何やら楽しそうに話している。アンナも、もしかしたらあの時妊娠したのかもしれない。本人は自覚していなかっただろうが、彼女は死ぬ暫し前に妊娠の兆候を示していた。もしそうだとしたら、我々にもあんなかわいい子が出来たかもしれない。
ビーズは小さな女の子をぼんやりと見つめていた。その子が「ママ、このおじさん、恐い。目がおかしい」という。
若い母親は慌ててその子を抱き上げて、頭をぱちんと叩き、「駄目、この子は」と叱りながら、ビーズにぺこぺこ頭を下げた。女の子はわけも分からず、泣き出した。
「気にしませんから、お嬢さんを叱らないでください」
若い母親は「本当に済みません。申し訳ありません」と何度も頭を下げながら、遠ざかっていった。ビーズは自分が片目だということを長らく忘れていたことに気付かされた。

今はどうでもいいことだ。それより、東山祭りと言えば、昔よく脚や腕を失った「傷痍軍人」というのが募金箱を胸にぶら下げ、軍歌を歌っていた。彼らの多くは休憩を取るときは、松葉杖を使わず普通に歩いていた。その時ビーズは自分を見て、無性に腹が立った。
普通の人間がカタワの真似をして同情を買い、お金を貰っている。
カタメの自分がすごく惨めだった。

ビーズの思いは遠くに飛んだ。「ロシア兵たちも、タジク兵たちも、多くはすき好んで兵隊になったわけではないだろう。すき好んで人殺しをやっているわけではないだろう。逃げる勇気がないから、他に道がないから、敵に怯えながら人殺しをしているのだろう。悲しいことだが、、勝者も敗者もない、終わりもない。得るものは悲しみと憎しみだけか」
あれやこれや考えながら歩いていたが、気がついたら目の前に中年の女性が立っていた。
背の高い女の子を連れていた。中学生ぐらいだろう。まだ発育途中の体つきをしていた。顔はあまり似ていないが、中年女性の娘だろう。
二人は楽しそうに話しをしている。ビーズは、目の前にいる中年女性が裕子だとすぐに気付いた。裕子も何かのついでに帰郷しているのだろうか。
胸がどきんとした。勿論、昔の裕子ではなかった。彼女は、自分を見つめている男が義眼を嵌めているのに気付き「確か、あなたは昔の同級生だったわね。えーと」
「義眼のビーズだよ」
「そうそう。タカ.. タカヤマ君だったっけ」
あれほど、思いつづけた女性が自分の名前を覚えていてくれなかった。
当然の事だろうが、ビーズは寂しくなった。
「そう、タカヤマだよ。済まん。ちょっと急いでいるので、また後ほど」

裕子は久しぶりに会う旧友の態度に少し驚きながらも、娘との話しの方に興味を移した。
ビーズは急いでその場から離れた。タカヤマという名前はどこから出たのだろう。
俺の名前はサカモト、坂本聡だ。
この神社に来たのは、ひょっとしたら裕子に会えるのではという期待もあってのことだった。ほんの偶然で裕子に会えた。昔の理知的な美しさや品の良さは残していた。
しかし、アンナに見た裕子のイメージではなかった。男の心を焼くような眼差しはない。ビーズには喜びも感動もなかった。疲れだけを感じた。
神社参りはもう止めた。
ホテルに帰ってベッドに身を投げ出すと、よほど疲れていたのか、そのまま眠ってしまった。午後4時過ぎになって目が覚めた。
寿司でも食べようかと思って財布の中を眺めたら、ちょっと心細い。
近くにあった銀行でキャッシュカードを使って10万円ほど降ろした。
残高欄を見て驚いた。数百万の残金があった。あの担当部長が積立金やら補償金やらを入れてくれたのだ。タクシーを拾って、町の東に聳え立つ大山(だいせん)まで走ることにした。
国道沿いのスポーツ品店で山靴、ウインドブレーカ、帽子などを買い、コンビニであんぱんとミネラルウオーターを買った。要らない服は捨てた。
大山登山口というところでタクシーを降りた。運転手は距離を稼ぐことが出来て、嬉しそうにしていたので、ビーズも嬉しくなってチップをはずんでやった。
もう陽は暮れていた。むかし何度も登った山なので、夜の登山にも自信はあった。
ゆっくりゆっくり歩いた。標高1731メートル。中国地方で最も高い休火山だ。
この時期、この時間に登山する者はいなかった。
山霧が立っていて、下界は見えなかった。かなり寒かった。
昔は体が軽かったせいか苦もなく登ったが、この年齢になると息が苦しい。
時々、休憩を入れた。あんぱんがうまかった。津山行きに挑戦した昔が懐かしい。
あの時もあんぱんがとても美味しかった。水は大事にした。
這いつくばって登るような急坂では思考は停止していた。登ることだけに専念した。
7~8合目あたりではだらだら坂がいつまでも続いた。
月の明かりで、背の低い伽羅木(きゃらぼく)が群生しているのが見えた。
この光景は昔と変わらない。

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2010年12月 8日

ビーズ (パミールのはてに) vol.18 伽耶雅人

地上の「武装ゲリラ」を殲滅した攻撃ヘリの搭乗兵は互いにVサインを送りあった。
一機のヘリが援護するなか、もう一機が着陸を始めた。ヘリから降りたロシア兵たちがビーズに近づき何かどなったが、ビーズは反応を示さなかった。
兵士たちはビーズの両腕をつかみ、機内に押し込んだ。別の一機が旋回援護するなか、ビーズを乗せたヘリは離陸し、村の上空を離れた。

ビーズは機内で持ち物の検査を受けた。ぼろぼろに汚れたパスポートとカメラが出て来た。通信兵がヴァルナ基地と交信を始めた。ヴァルナは首都ドシャンベと連絡を取った。
ヘリは「一旦ヴァルナに帰還し、明朝、その日本人をドシャンベに運べ」との命令を受けた。
「彼はキルギスで誘拐された日本人医師と判明した。機内でも丁重に扱うように」との指示だった。サンドウイッチとコーヒーが出されたが、ビーズは何にも手を付けなかった。
ビーズはアンナが消えてしまった世界では、生きる力を失っていた。死にたいと思った。
ビーズの瞼の裏にアンナと暮らした日々の情景が鮮やかに蘇っていた。
ヘリはヴァルナのロシア軍基地に着いた。乗員たちは「我が家」に帰ったと思ったのだろう、ロシアの流行歌をうたいだした。三人、四人と歌い出す。
低い声、高い声がうまくハモっている。何かの恋歌のようだが、ビーズの胸にずんずん響いて来る。情け容赦なく人を殺した奴らが、何故こんなに美しい歌をうたえるのだろう。
ビーズは、悲しくて、悲しくて、片方の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。

翌朝、同じヘリで首都ドシャンベに向かった。ドシャンベの町に着いたら、彼は一躍有名人になっていた。イスラム・テロリストに拉致されて数ヶ月生き延びた日本人医師。ひとりでテロリストと闘った日本のサムライ。
大袈裟なニュース。ロシアは言うまでもなく、西側のカメラやマイクも殺到した。
彼は何を問われても、何も言わなかった。ただ、ぼさぼさの髪と髭、垢だらけのセーター、ぼろぼろのジーンズ、それに生気のない表情は「拉致生活」の長さと過酷さを十分に物語っていた。
彼は知る由もなかったが、ロシアのテレビは「一年近くも軟禁されれば、言語障害を起こすのは当然だ。イスラム・テロリストは被誘拐者に対して、ここまで非人道的な扱いをしているのだ」という解説をつけていた。
攻撃ヘリの搭乗兵は「猛烈な敵弾幕をかい潜って敵の拠点に乗り込み、数時間にも及ぶ激戦のすえ、武装テロリストを殲滅。拉致されていた日本人医師を救出した」として英雄に祭り上げられていた。哀れな日本人医師の顔も画面に映し出された。
実際、ロシア攻撃ヘリの搭乗兵は空から地上の動きを見ていた。その時、ビーズは四人のテロリストに無理やり引き立てられていたように見えた。しかも、その彼が隣国キルギスの首都から数ヶ月前に失踪した日本人医師と判明した後は、彼が被誘拐者であることに疑いを挟む余地は全くなかった。
結局、(武装イスラムによる日本人医師の拉致、ロシア軍兵士による決死の救出)という武勇伝が出来上がった。ビーズはそのような外の状況は全く知らなかったし、興味もなかった。
彼には「カメラのフラッシュはひどく眩しいものだ」ということだけが印象に残った。
ビーズは誰とも何も話したくなかった。アンナだけが喜びだった。それを失った今、自分が息をしているのさえ不思議なほどだった。ロシア軍による事情聴取が行われた。
「通訳をつけようか」と聞かれ、ビーズは「いや、要らない」と断った。彼はぽつりぽつりと行動経路を説明した。尋問者は完全に先入観を先走らせていた。
ビーズは尋問者の問いに答え、頷いた。尋問者の質問が理解できなくても、首を縦に振った。尋問者はあくまでビーズは「拉致された者」という前提で調書を作成した。
ビーズのロシア語の不正確さも誤解の原因だったかもしれない。彼がアンナのことを説明していれば誤解はなかったかもしれないが、アンナのことを他人に話す気は全くなかった。
もしかしたら、ロシア軍尋問者は、ビーズが反政府軍の「自発的な協力者」だと感づいていたかもしれないが、ここで状況を複雑化させることは自分らにとって得策ではないと判断したのかもしれない。日本人医師が反政府軍に自発的に協力したとなれば、ロシア軍とタジク政府のイメージを悪化させることになる。ロシア国内はともかくヨーロッパのマスコミは黙っていない。
結局、ビーズは苦難のすえ救出された「被誘拐者」のまま、日本側に引き渡された。
日本側に引き渡す前に彼らはビーズのカメラの中のディスクを調べたが、風景写真が幾つか写っているだけで「特に問題なし」としてそのまま返却された。
本来ロシア軍が没収すべきディスクはビーズのズボンの裏ポケットの中に隠されていた。
彼はカメラを返却されて「そう言えば」と裏ポケットのディスクを思い出し、財布に移した。

ビーズはソ連製ジェット旅客機TU‐154のファーストクラス席に着席させられてモスクワまで飛び、在モスクワ大使館員などの出迎えを受け、ホテルでの一泊の後モスクワを離れ、成田に向かった。
成田で取材陣に囲まれたが、体調の悪さを理由に早々にホテルにしけ込んだ。
ホテルに入って、息苦しさを感じた。
全てがきちんと整っている。しかし、生きているものは何もない。テーブルの上の花や観葉植物さえも無機質に感じた。そういう無機質なホテルで二日間待機させられた。勿論、テレビはあったが見る気がしなかった。
何もせずじっとしていると、生き生きとしたアンナ、ヨシフ、ヤシク、ユーラ、サラームの顔がフラッシュバックする。それに思い出したくない光景も。
彼らが血だらけになって倒れる姿、アンナが胸と下腹部をずたずたに切り裂かれて、赤黒い血に染まっている。黒髪に小さな白い花が揺れている。死人は悲しそうに微笑んでいる。ロシア軍基地での尋問...

電話がビーズの思考を中断させた。政府の海外医療協力隊とかの部長と担当者がやって来て、ロビーの喫茶でお会いしたいという。
喫茶店に行くと、必要以上に頭を下げる者がいたので、すぐそれと分かった。
部長と名乗る男は心配そうな同情顔で「この度は本当に大変でしたな。お加減はいかがですか。派遣医師等の現地警備につきましては派遣先国に厳しく要求しておるのですが、なんせあちらのお国事情はご存知の通りでして... 」長々と無意味な釈明を並べたあと、積立金や補償金などの額を提示して来た。「坂本先生のお口座に毎月積立金を振り込ませていただいていますが、それと同じ銀行口座に補償金を振込ませていただきとうございます」という。
ビーズはそのようなお金を貰う筋はないと断ったが、担当部長は金額表のついたパンフレットをビーズに見せながら「こういう制度になっております。無論、先生のご苦労に比べますれば、まことに些少とは思いますが、是非にもこれでご了承いただき.. 」と誤解したまま「自分の首がかかっておりますので」と無理やり承諾書にビーズのサインを取った。
「ご帰国後の生活にご不便がなきようクレジットつきキャッシュカードも用意しておきました。ここにもサインお願いします」という。確かにお金がなくてはここでは暮らせない。カードを用意してくれたことには感謝した。
彼らは最後に「帰国後の再就職のご案内」という別のパンフレットを残して、お茶も飲まず早々に帰ってしまった。ビーズは彼らが残した書類をまとめてゴミ箱に捨てた。
ついでに財布の中味を整理していたら、以前、キルギスの首都ビシケクで知り合ったフランス人記者の名刺が出て来た。マリオ・ダルヴォールという名前、パリのアドレス、電話番号が書かれていた。イタリア系のとても剽軽な男だった。
そう言えば、彼は「生の声、生の映像が人々を動かし、世界を変える」と言っていた。

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2010年12月 6日

ビーズ (パミールのはてに) vol.17 伽耶雅人

上に残ったサラームたち三人は医療用トラックに近づき、短い三日月刀で護衛兵を刺し殺した。殺された兵は声を上げる間もなく、その場に倒れた。
もしビーズが現場にいたら、これを止めようとしていただろう。少なくとも大騒ぎとなっていただろう。サラームがビーズとユーラを下に降ろしたのは、それを見越してのことだった。彼はこんな場所でビーズと「もめ事」を起こしたくなかった。
ところで、もしこの現場を目撃した者がいたら、あまりの早業のため「おそらく人間には必殺の無痛ツボがあるのだろう。あの三人はそのツボを突いたのだろう」と思ったかもしれない。しかし、実際には彼らは左手で敵の口を塞ぎ、同時に右手で喉を斬った。刺したのではなく、一瞬のうちに喉を掻き切った。もしこれが殺人でなければ賞賛に値することだが。

死人となった護衛兵を道路脇の茂みに隠すと、サラームたちは医療用トラックのフロント・フックにロープをかけ、そのロープを谷底に投げ落とした。ユーラがロープを拾い、上に合図を送った。上の三人は変速ギアをニュートラルにして、後ろからトラックを押した。
下のユーラとビーズはロープを引張った。トラックは音もなく動きだし、路肩を越え、ゆっくりと谷底に落ちていった。
数秒後、トラックは「ガシャンガシャン」とけたたましい音を立てたが、川の手前の岩にぶつかり、大破して止まった。
これからが勝負。出来るだけ多くの医薬品を出来るだけ短時間に掻きあつめ、持ち去る。ビーズは「強盗そのものだ」と思いながら、医薬品を掻きあつめ始めた。
トラックの内部では医療機や医薬品が散乱し、思いも寄らぬことだったが二人の兵が負傷して倒れていた。トラックの中で寝ていたようだ。寝ている最中にどんでん返しになって怪我をして、気を失ったようだ。
ユーラは医者のビーズに勝手なことをされてはまずいと「手を出すな」と叫び、倒れている兵に当て身を入れた。そして、「ドクトル、急いで必要な薬を選んでくれ」と叫んだ。
薬品名はロシア語で書かれているため識別がむずかしい。ビーズは手当たりしだいに掻きあつめた。他に血圧計、点滴液、注射針、メス、包帯、消毒液など、、医療用品に飢えているビーズにとっては宝の山だった。まもなくして上の方で兵隊の騒ぐ声が聞こえて来た。
さあ、逃げよう。サンタクロースのような泥棒袋を満杯にして皆で馬を隠した場所まで走った。上からパンパンという銃声が聞こえて来る。政府軍兵は下に転落した医療用トラックの辺りを狙って撃っているようだ。
5人は馬の背に盗品を載せ、音を立てぬよう急ぎ足で進んだ。川に沿って一時間以上進むと銃声も聞こえなくなった。もう大丈夫だ。
「やった。これで多くの人を助けることが出来る」ビーズは大漁時の漁夫の気分だった。
一方、政府軍兵は殺された戦友の死を悼み、泣いた。そして復讐を誓った。
道路の損壊部分は急ピッチで修復された。憎しみに燃えたトラック部隊は急拵えの橋道を越えて先を急いだ。
そのようなことは知る由もないビーズたちは貴重な「戦利品」を確実にトプチャク村に持ち帰るべく、敵との遭遇を避けて昼は動かず、夜に並足で(馬をゆっくり進ませて)で道なき道を進んだ。
その結果、トプチャクの近くまで辿り着くのに三日かかった。安全のため、無線機は電源を切ったままにしていたので、トプチャクの様子が分らなかった。ビーズは村が目前だと思うと、胸が張り裂けんばかりだった。アンナに早く会いたい。あと一息だ。馬さえも、自分たちの村の匂いを嗅いだのか、知らず知らず急ぎ足になっている。目を凝らして山の彼方を見た。まだ何も見えない。
ただ、向かう先に不吉な煙が立っている。
五人は馬を降りて歩いた。部落が見えてきた。物音がしない。
ヤシクが小声で「俺が様子を見に行く。あんたたちはここで待っていてくれ」と言い、物陰を利用して村に近づき、中を窺った。

ヤシクが見たのは、あちこちに転がる死体だけだった。
彼は呆然として歩き出した。残り四人もヤシクにつられて村に入った。
人馬の死体、焼け落ちた家、くすぶり続ける家。
ビーズは息を呑んだ。アンナはどこだ。アンナはどうした。
見える片目を血走らせてアンナを探した。焼け残った家の屋根裏からうめき声が聞こえて来た。これは、手術してやった「白髭」ではないか。アンナはどうした。
アンナを知らないか。
白髭が言うには、「二日前に政府軍のトラック部隊が攻めて来た。大勢だった。アンナは必死で病人や怪我人を守ろうとしてくれた。わしを天井裏に押し込んでくれた。わしの体が小さかったから、うまく収まった。政府軍兵は家捜しを始めた。奴らは村人を見つけしだい殺した。アンナは重病人を屋根の上にも匿ったが、空のヘリから通報されて、結局、一人残らず殺されてしまった。アンナは軍幹部の前に引き出された。政府軍の大佐がアンナに手招きした。大佐は彼女の体に触ろうとした。彼女は腰に隠した小刀を抜くと、その大佐に踊りかかった。大佐の腕に小刀は突き刺さった。
軍兵が彼女を取り押さえた。兵の一人が彼女を射殺しようとした。しかし大佐がそれを制した。彼は腕に突き刺さった小刀を引き抜くと、その小刀で彼女の服を引き割いた。アンナに『俺の女になるか』と訊いた。彼女は答える代わりに大佐の顔に唾を吐いた。大佐はにやにやしながら、部下の兵にアンナの脚を開かせ、彼女の下腹部を小刀で下から突いた。真っ赤な血がほとばしった。アンナは『ビーズ!』と叫んだ。ここには、もう生きている者はいない。わしも死ぬ。アラーのもとに行く。お医者さん、本当にありがとう。あなたにアラーのお加護を」
白髭は目を閉じた。口も体もぼろぼろだった。もともと重傷の彼が今日まで生き延びたのが奇跡のようだった。

ビーズはアンナを探した。部落の水場の近くで死んでいた。
衣類を剥がされ、乳房と下腹部はずたずたにされていたが、政府軍の兵たちにも心はあったのか、アンナの顔は汚されていなかった。その黒髪に、白い小さな花が刺されてあった。
彼女は、今日ビーズが来るのを待っていたかのように微笑んで死んでいた。
ビーズは部落の傍の野原に穴を掘って彼女を埋めた。
ビーズはアンナを埋めたまでは覚えているが、そのあとは覚えていない。

彼はその場にずっと立ちつくしていた。
ヤシク、ユーラ、サラーム、ハリムの四人がビーズの立っている場所に走り寄ってきた。
「ビーズ、攻撃ヘリがやって来る。急いでこの場を離れるんだ。早く!」
ビーズは呆然としたままだった。彼らはビーズの腕を取ってこの場から引きずって行こうとした。ビーズは抵抗した。アンナを埋めた場所から離れようとしない。
二機の攻撃ヘリが旋回しながら彼らの方に近づいてきた。

ユーラが「ヘリがすぐ近くに来ている。今すぐ逃げろ」と叫びながら、二機のヘリに向かって撃ち始めた。他の三人も援護射撃を始めた。
ヘリが頭を下げ、攻撃態勢に入った。回転式の機関砲が火を吹いた。瞬間、ユーラの体がぼろぼろになった。
ヤシク、サラーム、ハリムは木立の影に隠れた。ビーズはそのまま立ちすくんでいる。
三人は前と後ろから攻撃ヘリに挟まれた。
後ろに回ったヘリからは彼らの姿は丸見えだった。耳をつんざく機銃掃射の音。三人の男がいた場所には血と肉片だけが散らばっていた。

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2010年12月 3日

ビーズ (パミールのはてに) vol.16 伽耶雅人

ビーズが医者でなかったら、道に迷った二人はこの村で殺されていたかもしれない。
だが、「死」に慣れきってしまったビーズには、殺されるという実感も衝撃も湧かなかった。やるべきことが多かった。彼は患者の血と肉のなかで格闘していた。鼻を突く血の匂いが自分の体から消えなかった。この患者たちをいかに治療するか、医薬品をいかに入手するかで頭が一杯だった。
ビーズにとって重大事は、目的地ブルガとはまったく別の方向に進んでしまい、トプチャクという異種族の村に迷い込んでしまったこと。そして、目的地への途中にヴァルナという政府軍支配地域を挟んでしまったことだ。予期もせぬことだった。しかも現在、政府軍とロシア軍はそのヴァルナに集結しつつあるという。

これは、最近、首都ドシャンベなどで多発するロシア軍や政府軍を標的にした自爆テロが引き金となっている。因みに、自爆テロの主人公の多くは女たちだという。この国では、警察でも「他人の女」に服の上から触れることは許されない。爆弾を胴に巻き付け、それを上衣で隠した女が駐留軍の建物やトラックに飛び込み、自爆する。彼女らは「カミカゼ」と呼ばれる。日本語の神風特攻隊が世界共通語となった一例だが、あまり良い響きではない。自爆テロだ。
ただ、「女は身体検査を受けない」だけがその理由ではない。思いつめると男より女の方が「捨て身」になる。
ビーズは思った。そう言えば、男は基本的には自己保存本能によって行動する動物だから、いざという時には多くが「怯み」を見せる。自爆するにしてもそれなりの「理屈」で武装したうえで決行する。理屈抜きで「捨て身」になれるのは、母性本能という、男にはないものを持つ女性のほうだ。特に、子供がロシア軍や政府軍に殺された母親は進んで自爆してゆく。

爆破テロに業を煮やしたロシア軍とタジク政府軍はゲリラ根拠地の掃討のためにヴァルナに軍を集結。これから共同でゲリラの拠点に大攻勢を展開するという。ヴァルナはドシャンベと東パミールの中間にあり、大河アムダリア沿いの交通の要衝である。
ロシア軍とタジク政府軍は現政権に反抗する諸勢力をひとまとめに武装イスラム(イスラム原理主義者)と呼び、嘗ての十字軍の如く「敵地」に入ると誰彼の見境なく攻撃を仕掛けてくる。

「こういう状況の中で何をすればいいのか。何がベストか」、ビーズはしばし目を瞑っていたが、「ふう」とため息をつくと、アンナから貰った海賊の黒い眼帯を久しぶりに着けた。
トプチャクの主だった者を集めた。「ここにアンナを残す。彼女に必要な治療方法を説明しておく。誰か彼女をサポートをしてほしい。私には勇敢な兵士を2~3人付けてほしい。首都ドシャンベに行き、赤十字とか国連機関などの代表と掛けあって医療用品を貰い受けてくる」
皆がこれに賛同した。ビーズは「赤十字とか国連機関など」と言ったが、確たるアテがあったわけではない。ただ、皆を納得させるためにこれら権威ある中立機関を引き合いに出したまでだが、本人もこれにすがる思いだった。
同行者としてサラーム、ヤシク、ユーラ、ハリムという4人の若者が選ばれた。出発にはそれなりの準備が必要で結局、出発は3日後と決定した。
アンナは「自分も一緒に行く」と言って聞かなかったが、ビーズは「二人が出て行ってしまえば重症患者を誰が看るのだ。夫の命令だ。アンナは残れ」と黙らせた。本心は(自分のエゴかもしれないが)アンナだけは安全圏に置いおきたかった。ただ、それから出発するまでが大変だった。
ビーズは患者の絶叫と悶絶の荒療治を終え、夜更けにふらふらになってアンナと一緒に宿に戻る。アンナは患者一人一人の名前をあげて、その処置について詳しい指示を求める。
ビーズは患者の名前など覚えていない。すごく眠たいが、「最初の男」とか、「2番目の」とか、「右足の男」、「白髭の男」などで識別して、処置方法を出来るだけ分かりやすく説明する。アンナは超人的な吸収力で指示内容を理解した。
その後、アンナはシャツのボタンを外し、胸をはだけ、ジーパンのベルトを弛め、白く艶めかしい肢体を見せつけ、ビーズを刺激する。ランプの光でアンナの影が壁に揺れ、ビーズは我慢ならずダッシュする。どこからこんな力が出てくるのか、自分でも不思議だった。このまま昇天してもいい。もし昇天が許されないなら、アンナとともにこのまま奈落の底に落ちてもいい。ところで、麻薬をやっている者もこうなるのだろうか、気が遠くなる、アンナの絶叫に誘われる...
刹那の嵐が過ぎ去ると、ビーズは昔、山寺の庫裏で見た妖怪のような影踊りをぼんやりと思い出しながら、寝入ってしまった。

村人は「アラーの次に大事な」ドクトル・ビーズに最高を食事を用意してくれた。
精力をつけるための「サソリの唐揚げ」「羊の睾丸の串焼き」「蛇の輪切りスープ」など涙が出るほど強烈だった。勿論、こういう珍味はアンナと分けあった。本当はアンナに完食してもらいたかったが、「今晩も頑張ってね」と無理やり半分は食わされた。外見はともかく、味はまあまあだった。

いよいよドシャンベに向けて出発の日が来た。今夕、トプチャクを出る。
ビーズは帰宅して出発の準備をしていた。アンナが「今すぐ最後の一滴を出しなさい」という。ビーズは吹き出しそうになったが、「あなたの子が欲しい」という。アンナは真剣だった。
終わった後、アンナは上を向いたまま、「ビーズ、ありがとう。これで、もう思い残すことはないわ」という。ビーズはそれほど深刻になることはないと思ったが、アンナの思いつめた顔を見ていると何も言えなくなった。アンナの肩に手をやり、彼女の体をこちらに引き寄せようとした。
アンナは「だめ、そっちを向いたら貴重な一滴がこぼれる。それに涙もこぼれる」と泣き出してしまった。出発のとき彼女は見送りに出なかった。

5人と7頭の馬は首都を目指した。ビーズとサラーム、ヤシク、ユーラ、ハリム。
馬を飛ばしたが、道なき道が多かった。道中の景色は緑の秘境そのものだった。高山が多い。眼下に雲海が流れる。こんなところでアンナと羊でも飼いながらゆったりと暮らすのもいいなと思った。あとでアンナに見せるために、ここの景色を写真に撮っておくことにした。
2~3枚撮ったところでディスクが一杯になった。息を吸うのももったいないほど見事な景色だった。ビーズは予備のディスクを使ってこれを写真に収めた。満杯になったディスクは念のためズボンの裏ポケットに隠しておいた。ついでに電池も交換しようとしてジャンパーのポケットに手を入れたところ、紙片とそれに包まれた一把の毛髪が出てきた。「見送りもせず、ご免なさい。あなたが出て行く時、きっと私は泣いています。門出に涙は禁物だから、私はあなたを見送りません。必ず私のもとに帰って来てください。これは私の体の一部です。いつもあなたのそばに置いてください」

ロシア軍と政府軍は共同作戦を開始した。ヤシクの無線機に情報が入ってきた。
敵の集結地ヴァルナから東や南に向けて数個のトラック部隊が進んでいるという。つまり、自分たちはドシャンベに着く前にトラック部隊と遭遇することになる。
年長のサラームが「ドシャンベ行きを取り止めて、トラック隊から医薬品を奪おう」と言い出した。「ドシャンベはまだまだ遠い。敵を迂回しながらでは往復するには気が遠くなるほどの時間がかかる。重症者を待たせたくない。トプチャクでは毎日、人が死んでいる。どうせ敵と遭遇するなら、こちらから仕掛けて薬を奪おうじゃないか」という。
ビーズはなんとしても殺しあいは避けたかったが、ドシャンベまでの距離が見当つかず、重症患者を放っておくわけに行かず、仕方なく「殺しあいは回避する」という条件でサラームに同意した。

彼らは即座に作戦を行動に移した。まず、トプチャク=ヴァルナ間の川沿いの国道に小穴をあけ、大量の爆薬を仕掛けた。車や人通りがないことを確認したうえで導火線に火をつけた。物陰に隠れ、暫く待つと「ドドーン」という大音響とともに大量の土砂が吹き飛ばされ、道路に大きな穴が開いた。5人は遠くに離れ、双眼鏡で様子を窺った。
夕方近く、政府軍のトラック隊がその場所に接近してきた。道路の損壊に気付くと、ゲリラの待ち伏せを警戒して兵は全員トラックから降りて臨戦態勢に入った。間もなく攻撃ヘリが上空を旋回し、サーチライトがゲリラを探し始めた。しかし、結果は何も発見できず、道路が走行不能となったため、その夜、隊は道路脇で野営することとなった。

5人は深夜を待った。夜の二時過ぎ、河沿いの道路に軍用車が並んでいる。予想通り車列後尾の赤十字マークのついた医療用車両には護衛が手薄だった。
サラームはビーズとユーラを指差し、その指を下に向けて振った。「二人は川岸に降りて、そこで待機してくれ」という合図だった。

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2010年12月 1日

ビーズ (パミールのはてに) vol.15 伽耶雅人

焼いた魚を二人で食べた。
きのうの牛肉缶の残りのたれをソースにして久しぶりの贅沢だった。新鮮な魚のおかげかアンナも少し元気になった。二頭の馬は川べりで草を食べていた。
ビーズはアンナに薬を飲ませ、首、肩、腰、脚を指圧した。熱もかなり下がってきたようだ。まだ陽はあるが、今日はここで野宿することにした。アンナに無理をさせたくなかった。ビーズはピストルを持ったまま寝た。朝冷え時は毛布一枚では寒かった。ビーズはアンナを抱いて温めた。
朝早く、アンナが何も言わず、出発の荷造りをし始めた。「アンナ、大丈夫か。どうしたんだ」
アンナは目に涙を溜めて答えた。「ビーズ、私はあなたを殺しあいに巻き込んでしまった。最初の約束を破ってしまった。あなたに申し訳ないと思っている。一晩、思い悩んだ。あなたと私は別の世界で生きる人間だと、、ここで別れましょう。私はパミールに帰る、あなたはもとのキルギスに、、」
「アンナ、何を言うんだ。あの時、軍用犬もいたし、戦わなければきっと二人とも捕まって殺されていたよ。だから、アンナ、君は俺を助けた。俺も君を助けた。俺たちは同罪同犯だ。日本語では「同じ穴の狢」というんだ。待てよ、ちょっと違うかな。とにかく、生きるも死ぬも、地獄に行くのも一緒だ。しかし、やっぱり俺は医者だ。もう人殺しはしたくない。これ以上、人殺しはやめよう。殺さず、逃げよう。そして、助けよう」
「ビーズ、一緒にいてもいいの?」
「勿論だ。死がふたりを別つまでって約束したじゃないか」
「ありがとう。あなたのためなら私は死ねる」

朝が来た。ふたりはブルガを目指し、さらに東進を続けた。道は山と谷の連続だった。
このまま進めば、南北に走る国道にぶつかる。それを北か南に進めば、ブルガの町に着くはずだ。東進を続けるうちに若いアンナはすっかり元気になった。それでもビーズとの相乗りをやめなかった。相乗りされる馬にはいい迷惑だが、ゆっくり進むぶんには文句はあるまい。
4日間、山中を東に進んだ。ところが幾ら進んでも国道が出て来ない。
ビーズは焦ってきた。道に迷ったのか。
とにかく、東に進むしかない。焦りを感じながら進むうちに小さな集落に差しかかった。
集落の入り口に、日本の神社の鳥居のようなものがあった。その鳥居に三人の男が首吊りになっていた。ビーズの顔から血の気が失せた。
自分と一緒に馬の背に座っているアンナもおそらく同じだろう。
逃げようと思う前に集落の中から人が湧いて出て来た。彼らは銃を持ち、ビーズとアンナに部落の中に入るよう手招きしている。現地語で何か叫んだ。
アンナが同じく現地語で何か答えた。鬼のような髭面の男たちがいっせいに笑い出した。
彼女が更に何か言い足した。それに対し、彼らは口々に何やら喋りだし、両手をあげて喜びの表情を見せた。アンナがビーズに説明した。
「私たちが政府軍と闘って、敵のトラック三台を叩き潰して逃げてきたと話したら、彼ら笑い出した。信じてないようね。それで、この人はお医者さんだと話したら、それは神の思し召しだ。ここには病人や負傷者が多いので、是非助けてくれと言っている」
「OK、協力する。ただ、首吊りの人たちは何だ。何であろうと、取り外して地に埋めてやって欲しい」
アンナが話すと、彼らは目を吊り上げて声を荒げた。
「こいつらは政府軍に寝返って、味方を売った爬虫類だ。白骨になるまで晒しものにしてやると言っている」
ビーズはしばらく黙っていた。首吊り男たちも確たる主義や思想で政府軍についたわけではなかろう。人間の弱さゆえだろう。恐怖か、些細な欲得か。だが、味方を売ってしまったことは、取り返しのつかないことだ。ビーズはぶらぶら揺れる死体の顔に苦悶のあとを見た。もう許してやってほしい。とにかく、このまま放っておくことは出来ない。

ビーズは髭面に向かって、「晒しものは良くない。死人を晒しておけば、死体に蝿がたかる。その蝿によってチフスやコレラが広がる。地に埋めるか、焼いてしまうか、それがいやなら犬にでも食わすべきだ。もしあんたの親兄弟がああなっていたら、あんたはどう思うか」と四苦八苦のロシア語で話した。アンナが即座にビーズのロシア語を現地の言葉に訳そうとした。
髭面はアンナを制し、正確なロシア語で「分かった。地に埋めよう。ただ、交換条件というわけではないが、ここに暫し残ってくれ。医者はここではアラーの次に貴重な存在だ」という。大袈裟だと思ったが、ビーズは了解した。
集落の中に入って驚いた。傷ついた者がごろごろしていた。
確かにアンナが言うように、ここでは死ななくてもよい者が死んでいる。
「見ての通りだ。一週間前、政府軍が無防備の村を襲ってきて、村人を生け捕りにした。
数人の男が殺されたが、残りの多くの者は足や手を斬り落とされた。若い女は皆連れ去られた」という。同じタジク人同士でここまで残酷になれるのかというほど残酷だった。
手や足を切り落とされたうえに、顔や胴にも深手を負っている。耳や鼻をそぎ落とされたり、目を突かれたり... 
いずれかの時のために写真を撮っておいた。
まともな薬品がないので、ヨーチンで間に合わせている。斬り落とされた手足は白い骨が飛び出しており、肉は腐敗臭を発している。蝿がたかっている。その部分は当然壊死し、腐敗している。もう一度切り直す必要がある。すぐに手術を始めることにした。
川の水を煮たぎらせ、メスやのこぎりを消毒し、すべての手足を縛り上げる。それでも暴れる危険があるから、2~3人の男に手足を押さえつけさせる。
その男たちも一方の腕か脚を失っている。
せめてモルヒネでもあれば(それがなければ、麻薬でも)と思うが、ここにはないという。ないものは仕方がない。
砥石のような石鹸で手をよく洗い、患者の切除予定部分を入念に洗い、マークをつける。強いゴムバンドでその部分の血止めを施す。いよいよ切除開始。拷問時のような絶叫。
アンナは必死でビーズを手伝う。ビーズの汗を拭き、患者の震える腕を渾身の力をふりしぼって押さえつける。ビーズは鮮やかな手つきで肉を切る。
出来るだけ上皮組織を残して肉を切る。肉の収縮を待って、骨を切る。
患者の顔は土気色に変わる。
気を失ってくれればその方が良いが、激痛のため気を失うことなく、絶叫、悶絶を繰り返す。
アンナは汗と涙にまみれて患者を励ます。ビーズは針と糸で肉を縫う。皮膚の乏しい肉は縫いにくい。これに長い時間がかかる。貴重な消毒薬を使う。綿で手術部分を覆う。
患者はぐったりしている。水を飲ませ、濡れタオルで体を拭き、二重の毛布で保温する。あとは患者の回復力しだいだ。綿は一日に二度は取り替えねばならない。煮沸した水で患部をきれいに洗い、消毒薬を使う。大量の抗生物質がほしい。
同じような患者が何十人もいた。
あっという間に、医療品ケースの底が見えてきた。多すぎる患者数に対して焼け石に水だった。勿論、注射針は使い回しせざるを得ない。ビーズは乏しい医薬品を薄く延ばすように使いながら、最低必要な医薬品リストを作った。
集落の男達を呼び「いま私はここを離れるわけにはいかない。ブルガのコマンジールにこのリストを渡して至急、医薬品と医療器を貰って来てほしい」と頼んだ。

男達はブルガと聞いて顔を見合わせた。
ビーズは「どうしたんだ。ブルガはここからそれほど遠くないはずだが」と顔を向けた。
「とんでもない。ブルガは政府軍の支配地域ヴァルナの向うにある。今、ヴァルナを越えてブルガに行くのは至難の業だ。それに、あんただから話すが、同じイスラム教徒でも、我々トプチャクはブルガの連中とは別の種族だ。分かり易く言えば、我々はジンギスカンの子孫で、ペルシャ系のブルガとの間で昔から殺し合いを繰り返している。あんたと一緒にいるアンナはペルシャ系だ。あんたが医者でなかったら、彼女はここの男たちの慰み物になっていたところだ。勿論、あんたはこの場で首を刎ねられていた」
ビーズは、山岳に棲む人々は一つの谷ごとに部族国家を構え、部族間の争いが絶えないと聞いたことがある。それは食料の乏しい山国の人々が、自然のうちに身につけた生き残りの術ではないかと思った。奪いあい、殺しあい、数を減らしあうことにより、全体としての種を維持しているのだろう。

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2010年11月29日

ビーズ (パミールのはてに) vol.14 伽耶雅人

アンナはビーズに機関銃を岩陰に固定させ、自身はロケット砲を構えた。
三台のトラックは川の蛇行部分に差しかかっている。車とこちらの直線距離はもはや300メートルほどしかない。心臓は早鐘を打つ。ビーズは5人の若者たちの死体を思い出した。ぞっとする光景だった。アンナを同じように死なせたくない。
このままでは、勿論、殺し合いになる。今ならアンナの手を引いてここから逃げることができる。先頭の車はカーブを回り切って、正面をこちらに向けている。ビーズが声を出そうとした。
その時、「ドン」という音と共にアンナのロケット砲から鉄の塊が飛び出した。
あっと言う間に先頭のトラックに到達して、爆発する... いや、爆発しない...
不発かと思った瞬間、地を揺るがすような轟音とともに砲弾は炸裂した。先頭の車は大きく揺れて火を吹き、動きを止めた。乗員は全滅か。よく見えない。犬の吠える声が聞こえてきた。同時に、二台目、三台目のトラックから兵士がぱらぱらと道路に散らばった。
アンナが「やって!」という。もう逃げようがない。アンナを生かすには戦うしかない。自分は死んでもいい。アンナを守ろう。「よし、やろう」
ビーズは教わったとおり、弾帯が絡まらないよう注意しながら、射撃を始めた。
最初、機銃弾は上に飛んだり、下を叩いたりしたが、照準射撃の要領をつかむと、すぐに命中し始めた。3~4人が転がった。医者の心が疼く。
ここから飛び出していって、傷ついた兵士を助けたい。しかし、今それは出来ない相談だ。これで俺も殺人者だ。敵に殺されても文句は言えない。
「アンナを守る。俺は殺されてもいい」ビーズはそれだけを何度も繰り返し、銃弾を撃ちまくった。そのうち、心が少し落ち着いてきた。同時に、弾帯の残りが短くなっているのに気付いた。教わったとおりに新しい弾帯に切り替えた。が、先の尖った銃弾の列を見ているうちに、これ以上人を殺したくなかった。いや、人を殺すことが恐くなった。
そこで、ビーズは敵が前に出て来ないように、彼らの前面を撃ち続けた。犬が見えれば、後々のことを考えて犬を撃ち殺しておきたかったが、よほど訓練された軍用犬らしく見事に鳴りを潜めており、こちらからはその姿を見ることが出来なかった。
少しの間をおいてアンナの第二弾が飛んだ。横腹をこちらに向けた二台目のトラックが向う側に引っくり返り、火を吹いた。アンナが「少し退却して。位置を変えるのよ」という。ビーズは這ったまま、機関銃を持って道沿いに退却した。
敵弾が、さっきまでビーズたちがいた場所に飛来し始めた。
敵は恐怖からか、ほとんど盲撃ちをしている。中には自分から崖を転げ落ちる者もいた。
トラックの影に隠れて銃を撃つものもいたが、殆んどがトラックの後方に後ずさりしていった。ビーズは這いながら更に30メートルほど道路沿いに退いた。
潅木の塊があったので、機関銃をそこに隠すように据え付けた。
三台目のトラックの屋根に据え付けられた機関銃が、こちらに銃口を向けて火を吹き始めた。今のところは狙いが定まっていないが、ビーズは敵弾がアンナに当たっては大変と思い「アンナ、早く下がれ」と叫び、敵の機銃座を狙って撃ちまくった。
トラックのガラスが割れて吹っ飛んだ。トラックのラジエータにも着弾したのか、トラックの前部に白い湯気が立った。敵の機関銃は静かになった。
双眼鏡で覗くまでもなく、敵兵は後方への退却を始めている。ビーズは思った。あの若者達も好きこのんで死地に赴いたわけではなかろう。お互いこれ以上闘う意味はなさそうだ。彼はアンナに振り向き、叫んだ。「もう大丈夫だ。これ以上やることはなかろう。俺が援護するから、先に岩穴に戻れ」
アンナを逃がしてから、敵前方の道路に最後の弾丸を撃ちつけた。
敵からの応射は途絶えていた。ビーズは銃弾のない機関銃と、砲弾のないロケット砲を川に投げ捨てた。彼は敵の追尾をおそれて、岩穴に直接に戻らないで、遠回りした。
途中で雨が降り出した。体も濡れたが、心も雨に濡れていた。
「俺は少なくとも3~4人の兵を殺した。もしかしたら10人近く殺したかもしれない。もし、彼らの母親とここで会ったら、何といって言い訳をすれば良いのか。敵のトラックが来たとき、アンナがいやがっても彼女の手を引っ張って逃げるべきだった。俺はここに何をしに来たのか」
暗い気持ちで岩穴に着いた。アンナは岩穴の中で震えていた。ビーズはアンナの額に手を当てた。高い熱があった。「あーん」させて喉を見た。
喉の奥が赤く腫れている。アンナの胸に耳を当てた。少しざらつき音が聞こえた。のど風邪を引いているようだ。寒さ、緊張、疲労、それに栄養不足が原因だろう。
先ず、毛布でくるんで寝かせた。気管支炎や肺炎を起こさせないよう注意せねばならない。とにかく、体を暖め、休ませ、栄養をつけてやらねばならない。
ビーズはずっと両手でアンナの体を擦(さす)っていたが、夕暮れになると岩穴を出て、山の斜面から軍兵が残っていないのを確認して、道路に出た。
ひっくり返ったトラックにもぐり込み、携帯燃料や牛肉の缶詰、救急箱などをあさった。朝には倍の敵がここに来るだろうから、明日はトラックにはもう近づけない。今のうちに、出来るだけ多くの物を頂くことにした。鉄製のヘルメットも拝借した。
岩穴に戻り、奪ってきた軍用の携帯燃料を使って火をおこし、鉄ヘルメットで湯を沸かした。岩穴の中が暖まってきた。同じく奪ってきた薬箱からアスピリンを取り出して、アンナに飲ませ、それに加えて、昔、おお先生から教わった療法を彼女に施すことにした。
先ず、体をしっかり揉みほぐし、お湯で時間をかけて両足を温める。
牛肉缶を暖め、アンナに食べさせた。お腹が落ち着いたところで、後頭部、首、肩、腰、脚を指圧した。アンナはまだ高い熱があるが、気持ち良さそうに寝入った。
その寝顔には赤らみが差し、それはまだ愛らしい少女の貌を残していた。ヨシフ以外にもアンナに惚れている男は少なくなかろう。そう言えば、ヨシフはもういない。寂しい。今まで感じたことのない寂しさだ。なぜ、人は殺しあうのだろう。
とにかく、まず戦争をやめさせる手立てを考えねば... あれこれ思いながら、ビーズは岩穴から外に出た。夜の闇がこれほど暗いものだということを初めて知った。二頭の馬が気になった。火種を頼りに彼らの居場所に行き、背を撫でてやり、餌を与え、彼らを岩穴に近づけた。

朝になり、ビーズは道路の様子を見るために山を中腹まで下った。やはり、敵軍が来ていた。戦車一台を先頭にトラック三台が並んでいて、数人の歩兵が最後尾のトラックに兵士の死体を収容しようとしている。同時に、破壊されたトラックを崖下に落として、戦車を前に出そうとしている。「逃げるのは今しかない」ビーズは急いで岩穴に戻り、荷物を全て一頭の馬の背に乗せ、アンナを毛布でくるみ、二人で一頭の馬に相乗りした。アンナはまだ熱と咳があり、顔は赤らんでいたが、きのうよりは元気だった。
山を越え、谷を渡って反政府軍の拠点ブルガに引き返すことにした。山中では見当がつかないが、とにかく東に向かって馬を走らせた。
夕方近く途中の小川で休憩した。鱒のような魚が群れているので、木槍を数本作った。魚を目がけて、力まかせに水中に槍を打ち込むが、全然、命中しない。場所を変えて、精神を集中する。しかしビーズが槍を構えた途端、魚は彼の殺気を感じて逃げてしまう。
ビーズは光の屈折率というものを考えていなかったから、実際にいる場所より遠くに槍を投げ込んでいた。何度か失敗した後にこれに気付いた。
少し近めに狙いを定めて、思い切り投げつけた。まぐれか、魚の頭の部分に木槍が当たった。槍は魚の体には突き刺さらなかった。だが、魚は脳震盪でも起こしたのか死んだように横向きになった。
ビーズは急いでそれを水中から拾い上げた。長さ40cmほどの鱒のような魚だった。
その後、水中の魚を目がけて何度も槍を投げつけたが、槍が手を離れる前に魚は逃げの態勢に入り、まぐれは二度と起こらなかった。彼は枯れ枝を集めて火を起こした。

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2010年11月26日

ビーズ (パミールのはてに) vol.13 伽耶雅人

木立の中を進みながら、ビーズは日露戦争を舞台にした「敵中三百里」という映画を思い出した。
日本軍の斥候隊が敵中を騎馬で駆け巡る。小学生の頃にわくわくしながら観たものだが、これから自分自身がその映画の登場人物のように敵中を行軍することになる。
キルギスの首都ビシケクからパミールまで一週間近くかかったなら、パミールからドシャンベまでは少なくとも一週間は覚悟しなければならない。命がけの旅となる。その前触れのように行く手には黒く重たい雲が広がっていた。
それでも、アンナは嬉しがっている。ビーズはアンナの浮き浮きした様子を見ながら、「この明るさはどこから生まれるのだろう。これから敵中に侵入するというのに、アンナは恐くないのかな」と不思議がった。
とは言え、ビーズも嬉しかった。愛する女性とともに馬に乗って見知らぬ高原や渓流を旅する。これは昔、実際に夢に見た光景だった。
5人の同行兵士は二人のずっと前を進んでいた。5人の中に昨夜のヨシフもいた。
彼らは衣類や日用品の行商に化けていた。5人に8頭の馬。衣類や毛布、日用品の中に銃やロケット砲を隠していた。彼らの目つきは鋭く、外見はどう見ても山賊だった。しかし実際は皆、素朴で気持ちのいい若者だった。笑うと、歯の白さが目立っていた。
彼らはその昔「絹の道」を支配したソグド人の末裔であることを誇りにしている。
ヨシフは「女が一緒では政府軍に捕まる危険があるから、悪いが、あんた達は暫く後からついて来て欲しい」という。ビーズは仲間から外されて、少し裏切られたような気持ちになったが、実際は二人の安全を考えてのことだった。
時々、仲間の一人か二人がビーズとアンナをひやかしに来た。彼らはアンナに現地語で何か喋ると「お二人さん、いいところをお邪魔して悪かったな」と逃げて行く。
ビーズはあとでアンナから「この先3kmのところに敵の分隊がいるから、次の角で右に曲がって... 」と説明を受けた。急勾配の道なき道を進み、敵軍を迂回した。
このような調子だから、とても数日では目的地に着きそうもなく、いつも粗食の連続だが、アンナはビーズとひとつの毛布で寝ることが出来るのでこの旅を苦に感じていないようだった。彼女は毎晩、暗闇のなかで日本の話をせがんだ。日本の歴史、昔話、ビーズの子供の頃、学生時代の話、ハイテク、、ビーズから聞くことは全て物語のように珍しく、新鮮だった。
「日本人は右の頬を殴られたら、左の頬を差し出すの? それとも殴り返すの?」
「色々あるだろうが、俺だったら逃げるね。日本では逃げるが勝ちというんだ」
「いい答えね。でも、私はあなたを逃がさないわよ。さあ、ベルトを緩めて、早く」
「... 」


朝早く、陽が登る前に2機のジェット機が飛来した。
1キロほど先の森を爆撃した。そこには5人の兵が潜んでいるはずだ。
木々の上に、続けさまに数本の爆炎がのぼる。同時にドドドーンと地を揺らし、胸を圧するほどの爆発音が伝わって来る。ビーズとアンナは走った。
「仲間を助けねば!」と走った。
だが、全滅だった。人も馬も吹っ飛ばされて、銃や荷物も散乱していた。
「ああ、神よ」アンナは両手を地につけて、頭をうなだれた。
5人の兵の動きはどこかで監視され、空軍基地に通報されたのだろうか。
ビーズは急いで散らばった残骸を調べた。ヨシフの肩かけ鞄の中に電源が入ったままの軍用ワイヤレス(無線機)が入っていた。敵はこれでヨシフたちの位置を特定したようだ。
通話していなくても電源が入っていれば、位置は特定される。ヨシフは電源を切っておくべきだった。(電源を切断すれば味方からの緊急通話が入って来ないから、電源を入れたまま「待ち受け状態」にしていたのだろう)今更どうしようもないことだが、ワイヤレスを持っていると分っていれば、事前に注意すべきだった...
アンナはビーズに「あなた、手伝って」と言いながら、散乱した残存物の中から武器、弾薬を拾い始めた。「今から散らばった武器を集めて茂みの中に隠す。5人の若者が大事にしていた武器を敵の手に渡したくない」という。
「そうだ。急いで武器を隠さねば!」ビーズは焦った。もし武器が見つかれば、5人の若者は「凶悪なテロリスト」にされてしまう。そして、そのアジトとして近隣の集落は政府軍=ロシア軍の攻撃に晒されることになる。
ビーズは道路脇の木立の下に穴を掘り、そこに武器、弾薬を埋め、上に襤褸切れを被せ、さらに土と枝葉で覆った。これが済んだら、この場を急いで離れなければならない。
「アンナ、行こう」
アンナは涙を拭きながら立ち上がり「どこに行くの。二人だけでドシャンベに向かっても道に迷うだけよ。それにいつ政府軍の待ち伏せに遭うか分からないわ」という。
「とにかく、この場から一旦離れて、どこかに身を潜め、それからどこに行くか決めよう」
「分かったわ」とアンナはとぼとぼと歩き出した。
ふたりは心細さで身を縮めながら馬を曳いた。烏の群れが不吉な鳴き声を上げていた。死肉を奪い合うのだろう。
ふたりは河に沿った道から離れて、深い木立の中に入って行った。木立の奥に岩場があり、岩陰に小さな洞穴があった。熊か何かが棲んでいた場所のようだった。
ビーズは拳銃を構えて中に入った。中には骨が転がっていたが、生き物はいなかった。
熊が鹿か兎でも捕まえて食べたのだろう。既に乾燥してぼろぼろになっているから、かなり古い。岩穴の中は寒かった。ビーズは荷物を持ち込んで、毛布を敷いた。
「暫くここで様子見をしよう。枯れ木を取ってくる。中で少し暖まろう」
「いや、一人にしないで。ずっと傍にいて」
「分かった。焚き火はあきらめる。ずっと傍にいる」
味気ない乾パンを食べながら時を過ごした。寒さしのぎに体を寄せ合った。
それでもアンナの体は震えていた。

数時間後、トラックのエンジン音が聞こえて来た。
ビーズは馬が怖れていななきを上げないように枚(口木)をふくませ、片目で双眼鏡を覗いた。政府軍が三台の茶緑色のトラックに兵士と武器を積んで、爆撃現場の後始末に来たようだ。距離はまだ数キロある。河沿いの細い道を、車体を左右に揺らせながら進んでいる。
アンナは上気した顔で「こうなれば逃げようがない。戦うしかない」という。
爆撃現場の後始末には歩兵隊が使われる。トラックに乗った兵は爆撃現場に近づくと(残存兵の抵抗に備えて)半数が戦闘配置につき、半数が銃の穂先で爆撃現場をチェックする。もし生き残りがいたら、そして少しでも抵抗の気配があれば、その場で殺す。抵抗の気配がなければ、尋問のために捕虜にする。尋問が終われば殺す。だから見つかれば、結局は殺される運命にある。アンナは「いま私たちが見つからない確率は限りなくゼロに近いわ。まず、馬がみつかる」という。確かにその通りだろう。馬を殺せばおとなしくなるが、銃声がする。それに、馬なしではこれから先、ふたりは山中で飢え死にすることになる。

トラックのエンジンの喘ぎ音はだんだんと近づいてくる。緊張が走る。
アンナが走った。武器を埋めた場所を目指して走った。ビーズは「危ない。見つかってしまう。止めねば」とアンナのあとを追った。しかし山中での動きはアンナの方がはるかに機敏だった。
俺は医者だ。人を殺したくない。それに、俺は武器のあつかい方など殆ど知らない。
だが、アンナひとりを見殺しにするわけにはいかない。放っておけない。一緒に死んでやろう、と心を決めた。それ以外の選択肢は考えられなかった。
「よし、やろう」
ふたりは道路脇の窪地に着くと、木立の下から使えそうな機関銃、ロケット砲、弾薬を掘り出した。三台のトラックはぐんぐん近づいて来る。運転手席の天井の上に機関銃が据え付けてある。何かが動けば、先ず天井の上の機関銃が火を吹くだろう。

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2010年11月24日

ビーズ (パミールのはてに) vol.12 伽耶雅人

アンナがビーズの(文法も語彙も)間違いだらけのロシア語の説明を聞いて上手に文をまとめてくれた。何枚もの手書きの指示書(処方箋)ができ上がった。
ビーズはアンナの手際よさに感心した。ただ、問題は薬品の廃棄分が8割以上にもなったことだ。このなかには期限切れのものの他に、どうしても薬品名や用途が特定出来ないものが多かった。実際に使えるものは1割そこそこだった。
しかも、殆ど全てがもともと薬効の低い年代物ばかり(新薬と呼べるものは皆無)だった。
反政府軍の兵士達はショックを受けた。「これでは困る。多くの者が医薬品を必要としている。なんとか廃棄分を減らすことは出来ないか」という。
「出来ない。こちらも真剣にやった。これが精一杯だ。それぞれに指示書を作ったので、それに基づいて使ってもらえば良い。不明な点があったら問合せいただけばよい。必要なら、こちらから治療の現場に出向いてもよい。本来そうすべきだろう。薬の不足分については、お金を出して買うか、それが出来ないならビシケク(キルギスの首都)かドシャンベ(タジクの首都)の中央病院にでも貰いに行くしかないだろう。特に外傷や骨折、火傷が多いようだから、レントゲンなどの検査機器や鎮痛剤、抗生剤が多く必要だ。残念ながら、ここには有効な医薬品が殆どない」
「分かった。中央病院から貰うと言っても、実際には奪い取るしかなかろう。キルギスは外国だから、遠征に時間もかかるし、外国と騒動を起こすのも都合が悪い。段取りが着いたら、我々がドシャンベに行こう。あちらでは我々の同志も少なくない。あんたも一緒に行ってほしい。その前に、しばらくここで医療活動をしてもらいたい。医者がいなくて困っている」
「勿論、そのつもりでここに来た。ドシャンベ行きはアンナも一緒なら、OKする」
アンナは満足顔で片目のビーズを見つめた。

ブルガでは町から少し離れた山の麓(ふもと)に横穴を掘り、防空壕を造っていた。
そこに多数の病人が寝かされていた。防空壕の中は蟻の巣のように、用途別に部屋が掘られており、ローソクが通路と各部屋を照らしていた。「これは凄い」とビーズは思った。いつかテレビで見たガンダーラとかローランとかの石窟を連想した。ただ、これは生きた石窟だった。
先ず、ビーズがコマンジールと呼ばれる隊長に要求したことは、洞窟から上に通気孔を掘り上げること、衛生管理を徹底することだった。空気の淀んだ地下室では健康な者でも病気になる。汚れた水から病気が伝染する。
医療知識の殆どない少年や少女が病人を看護していた。看護師見習いのようなものだ。
ビーズは治療の傍ら、アンナに通訳をしてもらい、彼らの教育に努めた。基本的な衛生概念から教えねばならなかった。日本では小学生でも知っているような常識から始めねばならなかった。通気、清掃に加えて、汚水の処理、上水の確保、栄養管理、温・湿度の管理、蝿や蚊の駆除など。
確かにここは日本と比べて湿気が少ないから、汚廃物による感染は比較的に少ない。
ただ、その分、人々の衛生観念が欠けている。幸い、水の豊富な場所なので、きれいな水は容易に得ることができる。問題は大変な数の患者の治療だった。外傷、骨折、呼吸器、消化器、循環器、、手術が必要だが、あらゆる医療機器、医薬品が絶対的に不足していた。勿論、専門家もいない。
「看護師見習い」たちは患者の激痛に対しモルヒネを用いていた。モルヒネと言えば聞こえはいいが、麻薬だ。ここは「麻薬の十字路」と言われるぐらいだから、麻薬は容易に手に入る。ビーズはせっぱ詰まった気持ちになった。ひどいところに来てしまった。
患者を診れば診るほど焦りが募った。なんとかしたいと、必死で治療にあたった。アンナはよく手伝ってくれた。
多くの患者は外科手術の対象で、一人の患者に少ない医薬品を大量に投与しなければならなかった。よく見かけるのは進行期の壊疽(えそ)だった。壊疽とは足の傷などに細菌が感染し、そこが化膿して、皮下組織が壊死している(腐っている)状態だ。これがさらに進行すると骨まで腐ってしまう。現実に多くが骨まで達している。すぐに処置せねばならない。切断手術も急がねばならない。
問題は何もかもが不足していることだ。アンナと一緒に仕分けをした医薬品は、この「病院」の他に「野戦病院」にも送られていったので、すぐに底がついてきた。ビーズはコマンジールと協議のうえ、医療機、医薬品確保のための「遠征」の準備を急いだ。
コマンジールは「奪い取るしかない」と言ったが、ビーズはあくまで事情を説明して、医療機や医薬品を貰い受けるつもりだった。「タジク政府がだめなら、確信はないが赤十字とか国連機関とかに駆け込めば、何とか目途が立つだろう... 」

夏の初め、いよいよ首都ドシャンベに向け出発することになった。出発の前夜、コマンジールがビーズとアンナを壮行の宴に招いてくれた。
そこで、あろうことか、アンナがベリーダンスを始めた。もともとプロのダンサーだからこういう場所で踊っても不思議ではないが、問題は透け透けのシミーズ姿、、下着が丸見え。腰を前後左右、小刻みに揺すり、首をのけぞる。何とも艶めかしい踊りだ。男どもがピーピーと口笛を吹いて囃し立てる。まさかあれがつい最近まで処女だったとは誰が知ろう。
宴は多いに盛り上がったが、ビーズは多いに戸惑った。踊っている傍に近寄り「もう、やめろ」と叫んだ。アンナは「みんなが喜ぶんだから、いいじゃない」という。
「そんなもんじゃない。とにかく止めろ」
アンナは踊りを止め、皆にペルシャ風の優雅な挨拶をした。「我が夫ドクトル・ビーズを紹介します。ビーズは名医にして、日本剣道の達人。我と思わん者は、、」
ビーズは「とんでもない!」と慌ててアンナの手を引いたが、遅かった。
若い兵士が飛び出してきて「日本の剣道を教えてくれ」と、ビーズに木の棒を差し出して来た。それは牛追いの杖だった。
兵士の名をヨシフという。アンナを意識している。ビーズにはその目の動きで分った。
ビーズは図らずも「恋敵」の挑戦を受ける格好となった。「よし、やろう」
ただ、日本の剣道というなら、本来なら両手で刀を握るが、軽い木の棒なので片手で構えた。ヨシフは剣を握ると、いきなり突っ込んできた。剣道を教えてもらうというより奇襲攻撃だ。ビーズはこれをかわして、頭上から剣を振り下ろした。ヨシフはそれを受ける態勢に入ろうとした。ビーズは振り下ろす剣を宙に停止させ、横にずらし、横薙ぎにした。その動きは流れるようで速かった。バシッと胴に入った。
ヨシフは恨めしそうな顔をしたが、「もう一本!」と再び突っ込んできた。
ビーズは今度はかわさず、素早い動きで下手からヨシフの剣を跳ね上げ、ヨシフの顔面寸前で自らの剣を止めた。ヨシフはこれで、諦めがついたようだ。
両手を宙に上げ「ビーズに神のご加護を!」と叫んだ。
皆が「神のご加護を!」と応じた。

かわいそうな仔羊が生贄となった。
ビーズに羊の眼球と脳味噌のご馳走が出されたが、彼は羊の眼球など食べたことがない。
途方にくれてしまった。それを見たアンナが「私たちによき子宝が授かりますように!」と、ビーズの手からそれを奪い取ってくれた。一方、羊の脳味噌は香ばしく絶品だった。
量もカニ味噌のようにほんのちょっとしかなかった。

村人たちはビーズに銃砲の使い方を教えた。機関銃や弾帯が非常に重たいものだということを始めて知った。それに、撃つこともかなり骨の折れる仕事だった。
射撃の反動が強い。若い牡牛の角を持って、そいつを左右に操縦するような感じだった。牡牛に言うことを聴かせるようになるまで、かなり時間がかかりそうだ。すくなくとも、一度や二度の練習ではとてもうまく撃てそうもない。

次の朝、いよいよ首都ドシャンベ向け出発することになった。
簡単にドシャンベと言うが、ここからドシャンベまではここからキルギスの首都ビシケクまでの距離とそれほど変わらない。道はこの地方の主要道だから、それなりに整備はされている。ただ、政府軍が待ち構える場所に向かって進むことになる。

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2010年11月22日

ビーズ (パミールのはてに) vol.11 伽耶雅人

ビーズは暫く疑問に思っていたことを口にした。
「タジクの反体制側は、不本意かもしれないが、アフガンのイスラム原理主義者などから武器援助を受けているだろうな。実際、そうでもしないと強大なロシア軍を後ろ盾にしている政府軍と戦うなど土台無理なことだ。そうだろ?」
アンナは「違う」という。「私達はロシア軍と戦っているけど、イスラム原理主義者などに武器援助を求めないし、求めたくもない。自分たちの将来を彼らに左右されたくない。まず、彼らは女を人間と思っていない。性の道具と思っている。
あなた、割礼(circumcision)という言葉を知っているでしょ。一般には男子の包皮切除と思われているけど、彼らはその割礼を女にも強制するのよ。女が淫らな快感を持たないように陰核を切り取ってしまうっていうのよ。淫らなのは男のほうじゃない。ビーズ、あなた、そうでしょ」
「たしかに一般的にはそうだな。我が家はちょっと事情が違うが、ね」
「もう、冗談はよして! とにかく、私にはイスラム原理主義者は気が狂っているとしか思えない。あり得ないと思うでしょうけど、彼らはコーラン以外の思想も教育も認めない。女は教育を受けてはならない。夫以外の男に顔を見せてはならない。外ではブルカで(目だけを出して)顔と体をすべて隠せというのよ。とてもついて行けないわ。だから、まともなイスラムとは手を組むけど、あの連中とは死んでも手を組まない。こう思うのは私だけじゃない。私たちはロシア軍とイスラム原理主義者の間にあって、民主・独立のために戦っている。少なくとも私たちはそのために戦っている。パミールの険しい山々が私たちの味方になってくれている」という。
相容れない力がぶつかり合う中で、自らの独立を保とうとすることは至難の業だ。
「第二次大戦中、ドイツ軍とソ連軍に挟まれた弱小国の人々もこうだっただろうな」ビーズはアンナの気持ちを思いやった。アンナはやりきれないだろう。俺がずっと彼女のそばにいて力になってやろう。
「ところで、だったら反体制派は武器、弾薬をどこで調達しているんだ」
アンナは事もなげに「政府軍にも反体制派がいるのよ」と答えた。
「なるほど、そう言えば、キルギスの報道テレビで見たタジクのゲリラは旧式のソ連製武器を使ってたな。体制派と反体制派が同じ武器で戦っているわけか」

二人はアンナの母親ベーラの家で二泊した。
その間、アンナは、剣舞のダンサーだけあって、その見事な肢体でビーズに挑みかかった。
ビーズは彼女の絶叫が気になったが、「お父さんとお母さんだってそうだったから」と、まったく気にかける様子はなかった。「馬や羊だって同じでしょ」という。まさか!
三日目の朝にアンナの母と妹弟に別れを告げた。ビーズは晴れて無医村に向かう青年医師の心境だった。ベーラは両手を合わせて二人の無事を祈ってくれた。妹は下を向いて頬を染めていた。
弟は二人について行きたがった。「あなたは残って、家族を守って」とアンナが制した。
二人は医療ケース、食糧と衣類、毛布、銃を馬に積み、同行の男二人とともに集結地への移動を始めた。全員、土地の農民の格好をした。
兵士二人は重たそうな機関銃やロケット砲を携行していた。ビーズは、このような武器はテレビでは見たことがあるが、実際に見るのは初めてだった。いよいよ命がけの世界に入って行くと実感した。
全員乗馬のうえ、二頭の荷馬も連れていた。ビーズはいつもの小型カメラを携行した。
習慣となっていることだが、記録すべき病状は写真に撮っておく。できれば動画に撮る。
ただ、今回は医学的見地からではなく、状況を客観的な目で記録したい。それがいつか役に立つだろうと思った。ただ、死体の冷たさ、内臓の生暖かさ、血の匂いはカメラでは捕らえられないが、、

目的地への道は川に沿って走っていた。大きな穴がいたる所に開いており普通の車は通れそうもない。場所によっては道そのものが川に落ち込んでいた。そういう場所では馬を曳いて歩いた。川は水量が多く、ごうごうと音を立てている。何度か今にも崩れ落ちそうな橋を渡った。一人ずつ用心深く。あたりの木々は鮮やかな濃い緑だった。
夜はアンナと寄り添って寝た。朝方の寒さで目が覚める。
出発してから二日目の昼前に、タンタンタンとエンジン音を響かせながら、2機の攻撃ヘリが山の向うからやって来た。急いで6頭の馬を樹の下に隠した。
二人の兵は何やら叫んで、藪に散った。ヘリの爆音がすぐ近くまで迫って来た。
あろうことか、藪の中から「ドン」という音とともに一発のロケット弾が飛び出した。
昼間に見る花火のように、後方に火と煙を吐きながらヘリに近づいて行く。
瞬間、オレンジ色の光が走り、黒煙が散った。ヘリはバランスを失って、きり揉み状態に入った。ビーズは真っ青になった。頭がうまく回転しない。夢であってほしいと思った。
自分達が人を殺すなど想像もしていなかった。
ヘリはそのまま下に落ちた。もう一機のヘリがそれを追って降下したが、既に救助の必要がないことを確認したのか、地上からの攻撃を怖れたのか、急上昇すると逃飛行を始めた。ビーズは無意識のうちに医薬品ケースを取ると、墜落したヘリに走り寄った。
予想以上に広い範囲に機体の一部やら、兵器やらが散らばっていた。
負傷者を探した。そして、すぐに無意味だと分かった。
ビーズは傍にいるアンナに「なぜ、攻撃したのか。ヘリをやり過ごせば良かったのではないか」と喰ってかかったが「馬が6頭もいれば、必ず見つかる」という。
ビーズにはそれ以上、言葉が出なかった。
二人の兵士が乗馬で駆けてきた。「すぐに敵のジェットが飛んで来る。馬に乗れ、急いでこの場から離れろ」と叫び、荷馬とともに先を越して行ってしまった。
アンナは、親が子を見守るように、何度もビーズに振り向きつつ前を駆けた。

あと2時間ほどで目的地ブルガだという。盆地の町ブルガはタジク東部を南北に走る国道と大きな川が交差する要衝の地で、首都ドシャンベからは遠く政府の地上軍の支配は及ばない。ただ、ロシア軍はここに近づく者を空から監視しており、特に南のアフガン方面からやって来る集団はイスラム原理主義者、武装イスラムと見做され、即、攻撃の対象となるという。問題は、(当然ながら)彼らは一般人に偽装しており、一般人との見極めがつかないことだ。

ブルガ近郊農家の軒下で最初の患者に出会った。患者というより自殺未遂者だった。
50歳ぐらいの男だったが、途切れ途切れに喋った。「ヘリ攻撃を受けて、逃げた、その時、女房が倒れて、骨折した、山羊も殺された、行く当てがない、食えない、女房を刺し殺した、自分も死のうと思い、首にナイフを刺した、狙い目が悪かった、即死出来なかった、口惜しい、、」
ビーズは「欲しいものはないか」と訊いた。
男は首を横に振って、血だらけの指で土間に(ミール)と描いた。(ミール)とはロシア語で「平和を」という意味だ。
水を飲ませようとしたが、すでに水を飲む力もなく、出血多量で死んでいった。
ビーズは男の血だらけの顔と指、(ミール)という文字を写真に撮っておいた。いつかまたここに来ることがあったら供養してやろうと思い、貧弱な農家も撮っておいた。

ブルガでは顎髭を生やした男、目つきの鋭い男たちが町のあちこちにいた。ビーズとアンナは小さな建物の地下室に案内された。
そこには医薬品ケースが30個ほど並べられていた。先ず、これを整理して欲しいという。「どの薬をどういう症状の時に、どういう方法で使うのか、良く分かるように仕分けして欲しい。1/3ぐらいは大体分かるが、あとの2/3はこのままでは宝の持ち腐れとなってしまう」という。
すごく荒っぽいことを言うが、こういう状況下ではいたし方ないことだろうと了解した。大半はどこかの病院や敵軍から分捕って来たものだろうことは推測できた。
問題は、殆どの薬品が有効期限切れとなっていることだ。半年や1年ならまだ良いが、5~6年以上というのがざらにあった。なかには錠剤が変色したり、粉になってしまったり、飴のように溶けているものも多くあった。
ビーズはアンナに手伝ってもらい、使えそうなものを選別した。
そのうえで、取っておきの医学&薬学辞典を使って薬品名を調べ、その用途を特定し、仕分けした。出来るだけ多くを残そうと苦労した。医療経験者らしき者の助けも借りた。丸二日かかった。(処方箋)の作成にさらに二日かかった。

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2010年11月19日

ビーズ (パミールのはてに) vol.10 伽耶雅人

キルギスとタジクの国境の峰でふたりは夫婦の契りを交わした。
ビーズは強風になびく白い小花を摘んで輪を作り、アンナの指に嵌めた。眼下には夕陽に輝くパミール高原が広がっていた。ふたりは、パミールの山と空に誓った。
「死が二人を別つまで互いに愛しあい、助けあう」と。

タジクに入るとふたりは裏街道を選んで行動した。険しい山と谷の繰り返しだった。
それでも、何組かの難民の群れに遭遇した。手一杯の荷物を持って歩く者、驢馬を曳く者、数頭の山羊を連れた者、子供を連れた者、老人を背負う者、皆ぼろぼろの服で着膨れし、追い詰められ、落ち着きのない眼差し... ひとりの女が乳飲み子を抱えて路傍に座っていた。彼女は愛おしそうに小さな頭を撫でていたが、その子は目と口を開けたまま、茶色の顔で硬くなっていた。ビーズは済まないと思いながら、この光景をカメラに収めた。
120万の難民のうち、国境を越えた難民は北方キルギスに5万人、アムダリア河を越えて南方アフガンに6万人が逃れた。
ビーズはタジクに着いてから、ここがキルギスと同じようなものと思っていた自分が間違っていたことに気づいた。
キルギスでは下から山並を見上げていた。タジクではいつも山並のなかに自分がいた。
タジクと言っても、その東部のパミール高原だが、これほど山が険しければ、征服とか支配とかも決して容易なことではないと感じた。
直線で東京-大阪ほどの距離だが、険山と急流、軍隊と山賊を避けて行動したため、ビシケクを出て6日目の朝にようやくアンナの家に着いた。
庭に色とりどりの花が咲き、葡萄の蔓がその上を覆っていた。
内戦というから緊張の連続と思っていたので、拍子抜けのような気もした。のどかで陽だまりの匂いがした。ビーズは会う前から、この家の住人に親しみを感じた。
彼は風景の写真を撮るのが好きだった。いつかの思い出にここも写真に撮っておいた。

アンナの家には父親はおらず、母親と18歳の妹、13歳の弟の3人暮らしだった。
アンナは母と妹弟に得意顔で「私の夫、ドクトル・ビーズ・サカモト」と紹介した。
妹はもうすぐ19歳になるという。彼女はビーズを見ると恥ずかしそうに顔を赤らめ、にこっと微笑むと、畑の向うに行ってしまった。
昔、日本の田舎にもこのような娘がいたような気がする。ビーズはモノクロ写真を見ているような錯覚に襲われた。妹は姉のアンナと容貌も性格も異なっているようだ。
「多くの民族、種族が入り混じるとこうなるのか」とビーズは感心した。
弟は、国の将来のため勉強をしたいという。親からの受け売りかもしれないが、ビーズはそれでも立派だと思った。
母親はビーズが医者だと聞いて喜んだ。彼女は「たくさんの人が傷ついて苦しんでいる。一人でも多くの人を助けてちょうだい。それから、アンナを大事にしてやってね。二人の幸せを心から祈っています」という。40過ぎという年齢の割りに老けて見えた。

父親の遺影の傍に木箱が置いてあった。その木箱の中に真鍮製のシリンダー状の回転体が入っていた。ビーズはアンナにそっと尋ねた。
「あれはマニ車ではないのか」
「そうよ。あなたはここがイスラムの世界と思ってたでしょう。母は父の冥福を祈って、あれを毎日廻しているのよ。妹もそう。ここは昔から色々な宗教の通り道だったから、宗教もごちゃごちゃになっている。イスラムが優勢だけど、スラブ正教の教会だってあるし、マニ車も、石窟大仏だってあるわ」
「そう言えば、イスラムは本来、他の宗教や文化に寛容だと聞いたことがある」
いつかアンナに石仏のある場所に連れて行ってもらうことにした。石仏を背景にアンナの写真を撮りたかった。実現しなかったが。
ふたりは母の家に一室をもらい、しばしの憩いの時を過ごした。

タジクの首都ドシャンベは人口51万の大都市で、国の西部に位置する。西部は東部と比較すると山も低く、わりあい開けた土地である。政府軍と反政府軍の武力衝突も、ドシャンベを中心に国の西部地域で多発している。
アンナの家がある東部パミールはどちらかと言えば、抗争からも忘れさられた辺地である。
ただし、ロシア軍はアフガン、パキスタンからの武装イスラムの侵入を防ぐため、東部パミールにも空軍を送り、攻撃の手を緩めない。彼らにはどれが一般人でどれが武装イスラムなのか皆目見当がつかない。ロシア軍の攻撃ヘリは、反政府ゲリラが潜んでいると見られる建物には上空からロケット弾を射ち込み、動くものは高速機関砲で無差別に撃ち殺してしまう。

アンナが奇妙なことを言いだした。
「あなた、ちょっと自分がロシア軍の攻撃ヘリの搭乗兵になった気持ちで考えてみて。
ロシア兵のあなたにはどこに敵のゲリラが潜んでいるのかほとんど分らないのよ。もしゲリラが下から鉄砲を撃ってくれば、勿論、彼らの位置を特定することは出来るでしょうけど、その時はすでに遅いわね。撃ち落されてからでは反撃は出来ないでしょ。あなたならどうする?」
ビーズは考えた。「そうだな、自分が殺される前に敵を殺さねばならないだろうな」
「そうでしょ。あなたは飛行中にテントとか人馬を見つける。ちょっとでもおかしいなと思ったら、『防御のための先制攻撃』をかけることになるでしょ。これが一般人の死傷者数を多くする原因となっているのよ。ロシア兵も、敵が憎いのではなく、ただ怖いから関係ない人まで殺している。ジェット機の場合は、もっとひどい。道を歩いていると、ジェット機が超高速で頭上を通り過ぎてしまってから、「ゴオオオ」という爆音が聞こえて来る。その音が聞こえて来たら、もう爆撃は終わっている。だから、よほどの対空ミサイルでもないかぎり、ジェット機の攻撃目標にされたら防ぎようも、逃げようもないのよ。こんな風に殺される方はたまったものじゃないわ。結局、一般人も無関係でいられなくなる。武装せざるを得なくなる。殺しあいの連鎖となる」
ビーズには答えようがなかった。理屈では分るが、実感が涌かなかった。

ロシア軍にとって援護すべきタジクの政府軍は装備や練度から見て「軍」の体を成していない。率直に言って、彼らはロシア軍にとって「足手まとい」だし、いつ反政府軍やイスラムテロリストの側に寝返るとも限らない。政府軍と称して狼藉を働く夜盗集団もいる。結局、ロシア軍が実質的な主体となって武装イスラムや反政府軍と戦うことになる。
タジク政府軍はロシア軍の下請けをさせられる。ただ、下請けといっても、決して生易しいものではない。
(政治的思惑から)ロシア軍は前面に出ることを極力避ける。その分、タジク政府軍が前面で、汚れ役を演じることになる。彼らは、ロシア軍による砲爆撃のあと、ロシア軍の援護のもとに敵の死体を片づけ、生き残りは射殺するか、尋問のために捕虜にする。略奪、拷問、強姦は言うまでもない。死体や負傷者から金品を奪い取る、これを「マラジョール」と呼ぶ。いたる所で「マラジョール」が横行している。反政府軍兵士はロシア軍より同じタジク人の政府軍兵を恐れ、憎しむ。
一方、個々のロシア軍兵士にとってはロシアの国策とか国益、旧ソ連圏防衛など興味のないことだ。しかし、ここに送り込まれたからには、自分の身を守るために敵を殺さねばならない。
ロシア軍兵士は大抵が貧しい農村の出身者で、もともと武装イスラムに対する戦意など持っていない。イスラムに関する知識さえない。
モスクワやペテルブルグなどの大都会で遊び呆けている同年代の若者に妬みを抱きつつ、指折り数えて兵役が明けるのを待っている。ただ、兵役が明けても彼らには行くところがなく、馴れ親しんだロシア軍兵舎に舞い戻ってくる。

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2010年11月17日

ビーズ (パミールのはてに) vol.9 伽耶雅人

タジク諸勢力間の大混戦を聞いているうちに、ビーズの頭も混乱してきた。
それを察して、アンナは一呼吸入れた。
「私たちパミールに住む者はロシアや旧共産党の支配には反抗するけど、他国から侵入してくるイスラム原理主義者にも絶対に与しない。皆が笑って暮らせる民主国家をつくるために戦っている。私はあなたに戦ってくれとは言わない。医者として私たちを助けてほしい。それが私のお願い。話が少しややっこしかったかな」
ビーズは英語で答えた。「いや、大体は分ったよ。日本にも昔は君が話してくれたような、そういう時代があったと思う。君たちはまさに今、大変動の歴史のなかにいるんだね。それにひきかえ、我々はもはや未来を思い描くことさえ出来ない。中味のない空虚な世界だ」
「砂漠のようね」
「そう、コンクリートの砂漠。コンクリートの空洞だ。それはそうと、少し考える時間をくれ。但し、もし仮に私がOKするとしても、君に心がない限り、決して君を求めない」
「分かったわ。私の家はこのすぐ傍なの。今からでは車も拾えないから私の家に泊まっていけばいいわ。あなたが紳士だということが分かったから」
ビーズはコーヒー代を払って、アンナに従った。
一部屋にちいさなベッドが一つあるだけだった。「シャワーがあるからシャワーを浴びなさい」というので、シャワー室に入ったが、出てくるのは冷水だけだった。
それでも石鹸があったので汗を落とすことが出来て、気持ちはさっぱりした。次にシャワーを終えたアンナは床で寝るという。
押し問答の末、「何もしなければいいんだから」というアンナの主張に抗し切れず、ベッドで二人が寝ることになった。
ビーズはこの二晩、眠れぬ夜が続いていたが、今夜は女性と初めての同衾で、眠るどころの騒ぎではなかった。アンナのやわらかい体がすり寄ってきて心が破裂しそうだった。
「我慢する」と自分に言い聞かせた。ただベッドが狭すぎるので、左手でアンナを抱かざるを得なかった。アンナは気持ちよさそうに身を寄せてきた。ビーズは懸命に昔のことを思い出して、気を紛らせようと努めた。高校時代、大学時代の思い出や、田中医院のこと。
あっ、そう言えば、昔、山の坊さんが「遠くで人が待つ」と言っていた。このことか。
アンナは気持ち良さそうに眠っている。
キルギスもタジクも自分にとっては同じことだ。日本政府の保護から外れることになるが、もともと自分流にやるつもりだった。安全なキルギスには自分の替えはいくらでも来るだろう。内戦か、、実際に危険だろうな。しかし医者がいないために死ななくてもいい人が多く死んでいると聞かされて放っておけるか、ビーズ。タジクが自分を必要としているなら、、我が身の捨て場にぴったりではないか、、「よし、決めた」とアンナの耳元で囁いた。
アンナはぴくっと体を震わせ、薄目を開いた。「どうしたの」
「タジキスタンに行くことする」
アンナは顔をほころばせ「ありがとう、本当に嬉しいわ。ビーズ、実を言うと、私はあなたが声をかけてくれた時から、あなたが忘れられなかったの。交換条件など出して御免なさい。もっと率直になるべきだったわね」とシャツのボタンを外し始めた。
ビーズはアンナの大胆さに驚いたが、終わって、更に驚いた。
あっという間だったが、お互い初めての経験だった。アンナは21歳だった。

タジキスタン(タジク)とは: 
中央アジアに位置し、面積14万3000km2、人口7百万人、国土の90%が山岳地帯、産業は農業(綿花・牧畜)や水力発電によるアルミニウム生産が主であった。1991年ソ連崩壊に伴い共和国として独立したが、その直後から内戦が続いた。
1997年、ようやく停戦が成立したが、この内戦で10万近くの人々が死亡し、120万人が難民となった。この内戦では内外のジャーナリストも標的にされ、数十人のジャーナリストが殺された。
内戦による社会基盤の崩壊やその後も続く経済の低迷から、インフラ整備が遅れ、失業率も高い。停戦成立後、現在に至るも情勢不安は続いている。
保健医療分野においても、医療設備の破壊や老朽化が激しく、子供や女性の栄養不良や感染症の蔓延、給水システムの不備、医薬品や人材の不足など問題が山積しており、2003年の乳児死亡率は1000人に対し92人、5歳未満児死亡率は1000人に対し118人と深刻である。(世界子供白書2005より)
近年の不安定な天候は自然環境や人間の健康にさらに多くの被害を及ぼしている。
ビーズがタジク行きを決心したのはソ連崩壊後の90年代前半、タジクで内戦が始まってまだ間がない頃だった。

アンナと一夜を過ごしたその翌日、ヤニコフというキルギスの政府高官から日本人海外協力隊員6名が夕食に招待された。アンナと会ったレストランとおなじようなレストランだった。店名を「テンシャン」というから天山山脈のことだろう。ヤニコフの「もてなし」の目的は海外協力隊員を通して日本の対キルギス政府援助を増額させることだった。
「ぜひ、皆さんのご協力をお願いしたい。まあ、食事をしながら私の話を聞いてください」
ビーズは睡眠不足の「連チャン」だったから、ズンチャカ・ズンチャカの舞台音楽とヤニコフの演説は騒音にしか聞こえなかった。ビーズは昨夜のことを思い出しながらぼんやりしていた。
ちょっと離れた席に座っていた男がビーズに近づき、通りすがりに一言二言、何やらわけの分からない現地語を喋って、ホールから出て行った。ビーズは少し驚いたが、まったく意味不明だったので、どう対応しようもなく食事を続けることにした。
ヤニコフの脇に座っていたボディガードのような男二人がすっくと立ち上がり、さきほどの男を追っていった。ビーズはヤニコフに「どうしたんですか」と聞いた。
ヤニコフは「ああ、さきほどの男があなたに『俺の女に眼(がん)をつけやがったな。このクソッタレ』と言ったから、部下があの男を刺しに行ったんですよ。私の客に対する侮辱は私自身に対する侮辱ですからね。ああ、この肉は美味しいですよ。熱いうちに、どうぞ」という。
ビーズは「まさか、俺があんな女に眼をつけるわけないだろう」と文句を言おうとしたが、雰囲気はそれどころではなかった。睡眠不足の眠気もどこやらへ飛んでしまった。
ビーズが眼をつけたという問題の女性はトイレに行ったはずの同伴者がいつまで経っても戻って来ないので、暫くそわそわしていたが、待ち人来たらず、腕時計を見ながら立ち上がり、キッとビーズを睨みつけて、レストランを出ていった。

それから数日後、ビーズは毛布と若干の食料、それに医学&薬学辞典と医療ケースを持って、愛馬と共にキルギスの首都ビシケクから消えた。勿論、アンナも一緒だった。
アンナは護身用の拳銃と片目の海賊がつける「黒い眼帯」をビーズにプレゼントした。ビーズはこの眼帯が多いに気に入った。自分も本物の山賊になったような気がした。

ビーズがいなくなって二日目に、ビシケク警察はビーズの失踪を反政府テロリストによる誘拐事件の可能性大として大掛かりな捜査網を敷いたが、彼の足取りは杳としてつかめなかった。
海外協力隊員の一人が警察にレストラン「テンシャン」での出来事を申し出て、怨恨の可能性ありと主張したが、怨恨の線からは何も出て来ず、迷宮入りとなってしまった。

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2010年11月15日

ビーズ (パミールのはてに) vol.8 伽耶雅人

ある金曜日の夕方、ビーズは町の中心地にあるレストランで食事をした。
ここは食事をしながら、有名歌手の歌を聴いたり、民族舞踊を見たりの、従来からのソ連式レストランだった。今日の出し物は民族舞踊だった。20人ほどの娘が剣舞をしていた。
皆、オリエント美人で、スタイルもよかった。剣と剣がぶつかるとキンキンと高い金属音がした。一方の女性が剣で相手の足を薙ぎ払うと他方の女性は見事に跳躍した。地に着く瞬間、剣を振りおろす。銀色の剣が綺麗な円弧を描く。
その中にあの娘がいた。日本にいた時、テレビで出会ったあの娘。はにかみの表情を見せなかった娘が。
剣舞が終わった。ビーズはテーブルから立ち上がり、その娘に近づいて行った。
「私はビシケクの総合病院で医者をしています。私は日本であなたに会いました」
ビーズは「日本のテレビであなたを見た」と言ったつもりだったが、ちょっと不勉強だった。しかも、そのあと表現力の貧困さゆえに、初対面の女性に日本語ではとても言えないことを、どういうわけかロシア語では喋ることが出来た。「いつか私と会ってください」
これは以前勉強したロシア語会話の本に書いてあった言い回しで、それが意図せず口を突いて出てしまった。
「何かの間違いでしょう。私は日本など行ったことがありません」
ビーズは説明に窮し、日本語を一旦英語に訳し、その英語をロシア語に直した。
「失礼、私は日本にいる時、あなたをテレビで見たのです」
彼女はビーズの両目をじっと見つめ、「あなたは日本のお医者さんですか。お名前は?」
ビーズは自分の義眼が気になったが、このときは目を伏せず必死で娘の目を見返しながら、「本名は坂本聡ですが、昔からビーズで通しています。ビーズと呼んでください」
実際はこれほど見事な言い方ではなかったが、とにかく、大体の意味は理解してもらえた。
「ビーズ、あなたの電話番号を教えてください。あとで電話します」
ビーズは手帳に自宅の電話番号を書き入れ、震える手でその頁を破って娘に手渡した。
「私の名はアンナです」という。
ビーズはテーブルに戻っても手が震え、ウオッカを一気飲みした。酔いが廻らなかった。

眠れぬ夜が二日続き、三日目の晩にアンナから電話がかかってきた。
「これから会いませんか」という。アンナが指定した場所は町外れの小さな喫茶バーだった。ビーズは白タクを拾い、そのバーに乗り着けた。
アンナは隅の席で待っていた。ビーズが席に着くと、コーヒーが運ばれて来た。
ビーズはここに至るまでの自らの蛮勇に我ながら感心した。実際、どこからこんな勇気が出て来たのか不思議に思った。しかし、このあとアンナに何を言っていいのか、まったく自信がなかった。アンナはビーズに微笑みかけた。
「こんな時間に御免なさい。最初にあなたに尋ねたい。あなたはなぜ私に声をかけたの」
「君がとても魅力的だったから、というだけでは不十分か。ロシア語で説明するのは難しいけど、正直に言うと子供の頃から想い続けた人のイメージにテレビに映った君の顔がダブった。君の映像が私の心に焼き付いて消えなくなってしまった。それで、ここに来ることに決めた。あまりにも軽薄か」と言いたかった。とにかく、身振り、手振り、破れかぶれのロシア語で、しかも時々英語を混ぜながら、なんとか説明した。
「いいえ、充分よ。あなたが一時の遊びのつもりでないことが分かったから。実はね、ダンサー仲間から外国人にはおかしいのが多いから気を付けなさいって言われていたの。でも、あなたは別の意味でやっぱりおかしな人よね。テレビで見た私が気に入って、はるばる日本から会いに来るなんて。私はとっても嬉しいけど」
「もう一つある」ビーズは説明に困り、英語で喋りだした。「日本で医者をすることに嫌気がさした。半分捨て鉢になっていた。どこか世界の果てにでも行きたかった。出来れば、そこで少しでも人のためになる仕事がしたかった。そんなときキルギスタンで医者が不足して困っているというテレビを見た」
「よく分ったわ。人のための仕事をしたいって本当に嬉しい。ところで、あなたは私がタジク人だと分かった?ソグドと言っても分からないわね。とにかく、私はタジク人よ。同じ中央アジアでもキルギスやウズベクなどはトルコ系だけど、タジクだけは彼らと違ってペルシャ系。私の生まれはタジクでも東部のパミール高原。言葉もかなり違うのよ。タジクでは内戦が続いて、たくさんの人が死んだり、難民となっている。あなたには興味ないことかもしれないけど、どうしても聞いてほしい。私と一緒にタジクに行ってタジク人を助けてほしい。何もお礼はできないけど、あなたが望むなら私をあげる」
ビーズは思い出した。タジキスタンは内戦地域ということで日本政府の海外協力隊派遣の対象から外されている。それどころか避難勧告さえ出ている。
但し、国連などからの食糧や医薬品の援助は、人道支援という形でなされている。
「アンナ、医薬品などはタジキスタンにも送られているはずだが」
アンナはロシア語と英語をうまく混ぜ合わせて説明した。
「それはみんな政府側に渡されているの。タジクの政府とは名ばかりで、元共産党の利権集団にすぎないわ。国民は餓えと病に苦しんでいる。タジクと比べればキルギスは天国よ。タジクでは死ななくてもいい人がお医者さんがいないために毎日たくさん死んでる。助けてほしい」
「分かった。少し考えさせてくれ。ところでタジキスタンではイスラム原理主義とかいう狂信者たちの侵略から国を守るためにロシアが軍事援助していると聞いたことがあるが、君もその一人か、イスラム原理主義者か」
アンナはビーズに何とか分らせようと、ひとつひとつ言葉をさがしながら一生懸命に、「それはロシア側の言い分よ。長い間、社会主義ソ連でマルクスの唯物論を叩き込まれた私達が、すぐにイスラム原理主義者などになれると思うの。日本でも仏教があるでしょう。イスラムもそれと同じよ。行き場のない人たちが救いを求めてアラーに祈っている。『神さま、助けてください』と祈っている。イスラムが出たついでに、ちょっと話が長くなりそうだけど、私の話を聞いてね」と言って、ビーズに分るようにタジキスタンの状況を噛み砕いて説明してくれた。その内容を箇条書きにすると:(以後、タジクと略す)
1.パミールなど高原が国の90%を占めるタジクは旧ソ連構成15ヶ国の中で最貧国だが、1991年ソビエト崩壊後も旧共産党系の政権(体制派)がそのまま支配を続けている。
2.政治・経済の大混乱の中で多くの人々は職を失い、生活の基盤を失った。人々の不満の矛先は旧共産党の現政権に向けられた。旧態を打破して民主・独立国家をつくろうという運動が起こった。アンナも父親もこれに合流し、戦い、死んだ。
3.一方、ソ連時代、政治・経済においてエリート的な地位を占めていた諸州(具体的にはレニナバード州、ヒッサル州、クロブ州の3州勢)は当然の流れとして現政権側についた。
それに対し、貧しい後進州は反体制側に走った。日本でも幕末に藩単位で佐幕派と勤皇派に分かれて戦ったが、これと同じように州単位で体制派と反体制派に分かれた。
4.体制派(旧共産党政権+エリート州)と反体制派(民主派+民族派+イスラム勢の三派連合・UTO)の対立は内戦に発展した。
5.三派連合内のイスラム勢はしばしばイスラム原理主義者(武装イスラム)と混同されるが、実態は伝統的イスラム(旧来の回教徒)である。多くは後進地域の貧しい人々だ。
6.ただし、彼らはイスラムであるがゆえに、侵略的なイスラム原理主義者の好餌となりうる。パキスタン、アフガンの原理主義者は武器、食糧援助を通じて(タジクを足場に)旧ソ連領中央アジアへの浸透を図ろうとしている。彼らはアメリカ製の高性能・小型兵器を備えており、ロシアはこれに神経を尖らせている。
7.ロシアはイスラム原理主義者の浸透阻止のため、ロシアとその周辺国で地域的な平和維持軍(PKF)を組織し、そのPKFの一員として(現状維持という共通課題で)タジク体制派の軍事支援に乗り出した。
結果、タジク体制派、反体制三派連合・UTO、ロシア軍、武装イスラムの間で大混戦が起こっている。

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2010年11月12日

ビーズ (パミールのはてに) vol.7 伽耶雅人

ビーズはテレビ局に電話を入れ「お宅のキルギスタンについての報道番組についてですが」と話を切り出した。「はい、昨日の放送分ですね。お名前とご用件をお伺いしたいのですが」
「こちら坂本聡という者です。お宅の報道によれば、現地では医者が不足して困っているとのことでしたね。私は医者なのでそこで開業したいのですが、どこに話を持って行けば良いのでしょうか」と尋ねた。
テレビ局の電話受付は番組を担当したスタッフを探し、そのスタッフに電話を切り替えてくれた。
番組の担当者は「坂本先生ですか。ご親切、痛み入ります。ただ、あそこでご自分で開業なさるのは難しいと思いますよ。医薬品や医療機の手配などはやはり国際機関や日本政府のサポートがないと、とても無理だと思いますしね。JICAとかODA(政府開発援助機構)などにコンタクトされてはいかがでしょうか。連絡先は... 」と説明してくれた。
ビーズは政府のルートなど通さず自分流にやりたかったが、考えて見ればそれをやる資金もチャンネルもなかった。結局、海外医療協力隊という組織に入ることになった。
健康診断や資格試験らしきものを受け、国内研修や、渡航手続きに3ヶ月近くがかかったが、費用は全て協力隊持ちだった。
キルギスタンを含め旧ソ連圏ではどこでも一応ロシア語が通用するという。ビーズはこの3ヶ月の間にロシア語の独学を進め、まがりなりにも会話は出来るようになった。

時が来た。出発は成田からモスクワ経由となった。
成田を発つ前に協力隊に英露の医学&薬学辞典の購入を頼んでおいた。モスクワの飛行場に出迎えの人が来て、分厚い英露辞典2冊を手渡してくれた。モスクワの飛行場は暗く、それだけでこの先の旅が思いやられた。
飛行場の建物から窓越しに周辺の白樺の森を写真に撮ったところ、恐ろしい顔をした警官がやって来て、カメラの画像をすべて消去してしまった。
空港での写真撮影は違法行為だという。
シェレメチエボⅡというモスクワの国際空港から、ローカル専用のドモデドボ空港への移動に車で2時間かかった。ちょうど成田から羽田への移動のような具合だった。
ただ、ドモデドボは、更に暗く汚れた空港だった。かっぱらいやペテン師の巣窟だという。
協力隊の付き添い通訳から「誰かが目の前で財布を落としても、絶対に触るな」と注意があった。触ったが最後、「中味が違う。お前が抜き取ったに違いない。お前の財布を見せろ」などと難癖を付けられたうえに所持金をすべて剥ぎ取られてしまうという。幸いにして今回は誰も目の前で財布を落としてくれなかった。
ビーズが空港ロビー内をぶらついていると、そばに人の良さそうなおじさんが近づいて来て「あんた、日本から来なすったんかえ。日本はええとこらしいね。桜、カラオケ... 」と話しかけてきた。ビーズはロシア語の勉強が出来るかなと思い「私は日本人です。職業は... 」と喋り始めたところで、付き添い通訳が血相を変えて飛んで来て、「ダメ、ダメ、ペテン師ですよ」とビーズをそこから連れ出してしまった。どう見てもペテン師には見えなかったが、それでこそペテン師なのだろう。

付き添い人1名、派遣医のビーズ、医療以外の海外協力隊員4名、総勢6名で悪臭のするソ連製ジェット旅客機に揺られてモスクワを離れた。キルギスの首都ビシケクは想像していたより小規模だが、都市らしい都市だった。ソ連時代に作られた町並みはそれなりに整然としていた。刺激のなさそうな町ではあるが。
ビーズ以外は農業や鉱業の専門家、貿易のコンサルタントなどだった。
ビーズは首都ビシケクの国立総合病院に配属された。
この国では本来キルギス語が正だが、ロシア語さえ話せば全く不自由はなかった。特に医学用語はロシア語しか使われていなかった。ビーズのロシア語は多いに役立った。
「総合病院」と言えば聞こえは良いが、(一応、内科、外科、小児科、産科、眼科、皮膚科、精神科、放射線科などすべて整っていたが)見た目がいかめしいだけで医療レベルはお粗末そのものだった。それに、ひどい不潔さはすぐに改善する必要があった。
多いのは呼吸器、循環器、消化器、皮膚科の疾病だった。乳幼児の死亡率が高く、平均寿命を低くしていた。
おしなべて日本人より10~15歳は老けて見える。ビーズは茶色に日焼けした髭と皺だらけの顔を見て、本来自分のいるべき場所に戻ったような気がした。
外国の援助によりX線、心電図、エコー、CT、MRIなど医療機器は設備されていたが、まともに使いこなす者はいなかった。機械に強いビーズはここでは「引っ張り凧」だった。

休みは白タクであたりを走り回った。地の果てという感じはしなかった。
4000メートル級の山々が空の上に連なる。澄んだ空気、さらさらと流れる雪解け水が冷たい。人の動きはのんびりしており、タイムトンネルで昔の日本の田舎に帰ったような錯覚さえおぼえた。ここはスイスのアルプスよりはるかに美しく、かつ素朴に思えた。
ビーズは写真を撮りまくった。替えの電池とディスクは何個も携行した。

牛馬羊のバザール(市)でぶらぶら歩いていたら「馬はどうか」という。
スタイル抜群で、それほど背の高くない雌馬がいたので値段を尋ねた。売り手はビーズの義眼をじっと見つめながら2万ソムだという。ビーズは2万ソムがいくらになるものか見当が付かなかった。反射的に「オーチン・ドーラガ!」と叫んだ。
これは昔、港町の商店街でよくロシア人船員が発した言葉、ロシア人客の常套句だった。
「非常に高い!」という意味だが、ビーズは「こんにちは!」程度のつもりだった。
売り手は後ろの仲間に振り向き、ごちょごちょと相談を始めた。
「1万5千ソム、これ以上は引けない」と睨みつける。気迫の勝負だった。「良し、買った」
値段を訊いただけが、なりゆきとは言え、えらいお荷物を買い込むことになった。
ビーズはお金を払って、馬に乗ろうとしたが、考えて見れば、乗り方を知らなかった。
初めてなので皆の前で落馬したら格好悪いと思い、そのまま曳いて行った。ビーズは後で1万5千ソムが日本円で3万円ちょっとだと知って、売り手に申し訳なかった。
アパートに帰ると管理人がにこにこ顔で出迎えた。月に1000ソムを出せば馬の面倒を見るという。ビーズはもう「気迫の勝負」はせぬことにした。1000ソムを払った。
彼は朝晩、この馬に乗り、歩くような速さで郊外を散歩するようになった。
途中、道路脇の屋台でシャシリク(羊肉の串焼き)と生の玉葱を買い食いした。何とも言えないほど美味しく感じた。
屋台の親父が「あんたは日本から来たお医者だろう。いつもここを通るから皆あんたのことはよく知っているよ。わしのおごりだ、やってくれ」とウオッカを湯飲み茶碗になみなみと注いでくれた。
「有り難う。私はビーズだ。今後ともよろしく。このシャシリクは本当に美味しいよ」
「片目が義眼だね。あんたも戦争に出たんかね」
「いや、子供の頃に遊んでいて怪我しただけだよ。戦争は一度も経験してない」
「それは幸せなことだ。わしら、何度も経験した。人が人を殺すのはもう沢山だね」
ビーズはウオッカを一気に飲み乾した。「おじさん、有り難う。また来るよ」

キルギスには日本人そっくりのキルギス人のほか、タジク人、ロシア人、チェチェン人、ウイグル人、カザフ人、中国人など雑多な人種が住んでいるという。
ロシア人は分かるが、その他は民族の根拠地が東から西に移るに従って、少しずつ彫りが深くなるという程度の違いしか分からなかった。

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2010年11月10日

ビーズ (パミールのはてに) vol.6 伽耶雅人

ビーズは治療室を兼ねた病室に行き、マリアに明日の朝9時頃に退院だと告げた。
マリアはお礼のつもりか、ビーズに気持ち一杯のキスをくれた。
ただ唇と唇を合わすのがキスだと思っていたビーズは、体全体に電気が走ったような衝撃を受けた。キスがこんなに衝撃的なものとは知らなかった。ドキドキ、ドキドキ、、胸の激しい鼓動が止まらなかった。生まれて初めてのヘビーキスの相手がロシア人だった。
ビーズは精一杯のロシア語で「とても嬉しいが、あなたは私を愛しているのか」と言った。
「いまは分からない。愛すかもしれない。だって、あなたはとても親切だから」
「マリア、またここに来ることがあれば、寄ってくれ。生まれて初めてのキスで心が破裂した」と言おうと思ったが、まともな文章が出て来ない。もう自分が何を言っているか分からない。
「ロシア語はむずかしい。私の名前はサカモト、アドレスはS市朝日町...、電話番号は085...だ」と言いながら、メモを書いた。
マリアはメモを受け取りつつ、今度はそっと優しくキスをしてくれた。
傍にロシア人がいたら、ビーズを見て「こんな目茶目茶なロシア語で、よくも図々しくナンパをしているもんだ」と感心したに違いない。

ふたりのロシア人船員は田中医院の待合室で次の日の朝9時まで待機した。
万一、マリアが日本に亡命するようなことがあれば、それは彼らの人生の破滅を意味した。それゆえ、彼らは一晩中まんじりともせずマリアを監視した。
彼らは体制の命ずるままに行動した。社会主義ソ連の崩壊は目前に迫っていたが、誰もそれを想像することは出来なかった。まさか超大国ソ連が崩壊するとは。

マリアが去ってしまってから、ビーズは一ヶ月以上も気の抜けたビールのようだった。
海岸通りをうろついていると、顔見知りの海運会社の大宮がやって来て「ソ連船から預かった」と白樺で作ったマトリョシカ(ロシアのこけし人形)と手紙を渡してくれた。
「あなたのお陰で私は今も元気で生きています。あなたが助けてくれなければ、私はきっともうこの世にはいなかったでしょう。ロシアに帰ると陸上勤務の命令が届いていました。もう、あなたに会うことはないでしょう。あなたの幸せを心から祈っています。この手紙とマトリョシカを信頼できる船乗りに託します。これを受け取ったことは誰にも言わないでください。 あなたにキスを送ります。マリア」
ビーズは手帳の一頁を破り「ありがとう、マリア。君が無事だと知って嬉しい。君のもとにこの手紙が届くことを祈る。生きて、いっぱい幸せになってくれ。ビーズ」と書き、その紙片をマトリョシカの体内にしまい込み、海に戻した。マトリョシカは波に揺られながら、ビーズに微笑みかけていた。ビーズは人形に手を振った。

それから、間もなくしてソ連崩壊の報が届いたが、ビーズには何の感動も与えなかった。
マリアの顔は思い出せなくなっていた。白い大理石のような下腹部の肌だけが脳裏に残った。
さらに、それから暫くして異変が起こった。釣り好きの「おお先生」が岩場で足を滑らせ、波に浚われてしまった。漁船に引き上げられた時は、彼の体はかなり魚に突つかれていた。
彼の希望通りの死に方だった。
田中医院は借金だらけだったため、「おお先生」の遺族は土地と建物を手放さざるを得なかった。ビーズは昔、山寺のお坊さんが言ったことを思い出し、「おお先生、あんたは一瞬の人生を光らせて、無に戻って行ったんですね」と空を見上げた。
空は重い雲に覆われ、海は鈍色だった。雲の隙間を通った一条の光が海面に射し込んだ。光の当たった部分だけが黄緑に輝いていた。ビーズはそこに田中医師を見た。
「おお先生、お世話になりました。お礼を言います」

彼は町を歩き、公衆電話を見つけると無意識のうちに0771XXXXという亀岡市夕陽丘の番号を廻していた。「もしもし」という声を聞いて、はっと受話器を置いた。俺はどうかしている。まだ過去の裕子を追っている。

再就職のための履歴書を持って、あちこちの病院を当たって見たが、大学教授の推薦状とか大病院の院長の紹介状などがないことを知ると、「いま空きがありませんので」というそっけない返事が返って来た。中には「坂本先生の履歴書はこちらで預からせていただきます」と丁重に応対されはしたが、その後は「梨の礫」というのがしばしばだった。
小さな漁港町の田中医院の医師では履歴書はみすぼらし過ぎたのかもしれない。いや、それとも、母校の大学教授の恩を仇で返すような「謀反人」に対する懲罰かもしれない。
それでも、それから三ヵ月ほど経ったころ、関西のある病院から声はかかった。
だが、その時ビーズはもう別のことを考えていた。裕子から出来るだけ遠くに離れたい。
日本にいればまた裕子のことを思い、心を引きずる。
それに、日本の医学界はせせこまし過ぎる。俺には合わない。いや、正直のところ、俺はもう何もかもがいやになって、というか何もかもが面倒くさくなって、ただ「身の捨て場」が欲しいだけかもしれない。どうせ、そうなら地球の果てがいい。
大学の学生課、県庁、旅行会社などを訪れ、色々と調べたところ、政府が組織した「海外医療派遣団」という組織があることが分った。しかし待て、これにはおいそれと乗りたくない。お上の偽善には虫唾が走る。という俺はやはり精神的な反逆児なんだろうな。

ある夕方、ビーズはぼんやりとテレビを見ていた。
中央アジアのキルギスタンという秘境が映っていた。画面には雪の帽子をかぶった美しい山並みが映し出されていた。解説者によれば、キルギスタンは元ソ連の構成国だった。
人口は450万人ほど、面積は20万平方km(東西800km、南北200~300km) の山国。社会主義ソ連の崩壊後まもなくして、隣国タジキスタンで内戦が起きて5万人ほどの難民がなだれ込んで来た。食料や医薬品、医師が不足しているということだった。

ビーズは自分には縁遠い世界のように思えて、テレビのスイッチを切ろうとした。
その時、画面に日本人そっくりの住人が出て来た。ただ、髭面とおかしな形をした帽子を被っているところが日本人と違っていた。
カメラマンは部落の娘たちを大写しにした。日本人に似ているが少し肉厚で、彫りが深い。ちゃんと化粧をすれば日本人よりはるかに美人だと思った。
そう言えば、縄文時代の日本人に似ているかな。弥生時代に中国系や朝鮮系ののっぺり顔に占領されるまでは、日本人はこのような顔だった筈だと思った。
画面のなかで娘達は一様にはにかみの表情を見せた。はにかみの表情は欧米人にないものだった。やはり日本人とどこかで繋がっているのだなと思い、スイッチを切るのを忘れて、画面を見続けた。
娘たちの中で一人、はにかみの表情を見せない娘がいた。その娘の目がビーズの心にちらっと引っかかった。いや、心に突き刺さった。ビーズはもっとよく見ようと体を前に乗り出したが、テレビ画面は既に雪山を背景とするポプラ並木に変わっていた。
ビーズの胸は熱くなった。
ビーズは賽を投げるように、今まで聞いたこともないキルギスタンに決めた。
キルギススタンは地図を見ても、タジキスタンとかウズベキスタンとか同じような国が雑然と散らばっているので、えらく込み入った場所だとしか見当がつかなかった。
ただ、地図の上では全体が濃い茶色で描かれているので、山の多い国だと感じた。
その南には世界の屋根と言われるパミール高原が広がっている。

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2010年11月 8日

ビーズ (パミールのはてに) vol.5 伽耶雅人

ビーズは港の大岸壁に木材を運んで来る船がソ連船(ロシア船)だと知って興味を持つようになった。昔からロシア民謡が好きだった。心に響く愁いがあった。それは山陰の空に似ていた。
木材船から降りて、港町を歩いているロシア人女性たちの言葉を注意深く聞いていると、それは流麗で、賛美歌のように聞こえた。何とかロシア語を征服してみたいと思うようになった。
ロシア語を齧(かじ)り始めて、驚いた。
例えば、英語の One という言葉が次に来る名詞の性(男性、女性、中性)や、数(単数、複数)、文法的な位置(主格、生格、与格、、など)によって24通りにも変化する。名詞さえ12変化する。日本語では名詞は「体言」といって決して変化しない。
さらに、一つの動詞に二つの形態(完了体、不完了体)があり、それぞれに過去、現在があり、それぞれが性や数によって変化する。これはもう「喋る言葉」ではないと思った。
しかし、ビーズはその難解がゆえに挑戦してみたくなった。同時にロシア人の思考パターンも研究してみたいと思った。なぜこんなに複雑な文法を瞬時に操れるのだろうか。
答えは暫くして分った。答えは理屈抜きの「慣れ」だった。
考えてみれば、日本語だって難解な言葉だ。例えば「行か・ねばならなく・なり・そうだ」という文は、よく見ればすべて後ろのパーツが前のパーツの形を決めている。
「行く」が次に来る「ねばならない」によって「行か」になり、「ねばならない」が次の「なる」によって「ねばならなく」になり、「なる」が次の「そうだ」によって「なり」となる。
それゆえ、日本語というものは、前以って最後まで文章を作っておいてからでないと喋れないはずだが、日本人はそんなことお構いなしに日本語をぺらぺら喋る。やはり言語においては「慣れ」が肝腎なのだ。と、ビーズは自分なりに合点して、少し自信を失った。
「慣れ」のためには場を踏まねばならないが、その可能性は殆んどない。

ビーズにお見合い相手を紹介してくれるものもいた。
実際にお見合いをしてみて、これほど疲れるものはないと思った。
一瞥で人を知るという超能力が求められる。逆に、一瞬で自分の長所を最大限アピールし全ての短所を押し隠す。ビーズにはそんな自信はなかった。
案の定、殆んど全て、向うから「残念ですが」という回答があった。
ビーズも断られてほっとした。その人たちには特別な感情が湧いて来なかった。同時に、自分が裕子の面影を今でも追い続けていることに気づき、少なからぬショックを覚えた。
無意識のうちに「裕子」を規準に良し悪しを決めている自分に。
ビーズは「裕子は美しく、やさしく、異性から見て好感度は抜群。俺は義眼、異性に対する好感度は殆んど零。俺のような男がもてるわけがない。でも、しかしだ。それは時と場合によって変わる。それに、相手によってもだ。もしかしたら、裕子は、本当は俺のことを好いていてくれたかもしれない。美人にはよくあることだが、普通の美男子よりも、俺のような影のある男のほうが好きだったかもしれない... 」と呟きつつ、溜め息をついた。
「その可能性も殆んどないだろうな」

ロシア語が幾分か上達すると、ビーズはどうしても本物のロシア人との会話がしてみたくなった。町の目抜き通りをソ連船の乗り組み員が歩いていた。前以って何度も練習したことを口に出してみた。
「こんにちは、私はこの町の医者です。趣味でロシア語を勉強しています。何でもいいですから、質問してください」
相手は警戒の顔で「ZXZXZX.... 」と喋った。
ビーズにはさっぱり分からなかった。
知る限りの言葉を駆使して、「あなたの名前は何ですか。どこに住んでいますか。職業は.. 」と喋った。
相手は名前だけ「ビクトル」と言ったが、あとは警戒からか「ZWZWZW... 」とビーズには理解出来ない言葉を残して、立ち去ってしまった。
ビーズは懲りず、暇を見つけてはロシア語の他流試合を試みた。
彼は医学と語学の違いをこう思った。
医学には間違いが許されない。すべてが正解でなければならない。ところが語学には速度という要素がある。少々の間違いを恐れず、話のポイントを押さえることだ。どんどん流れてくる音声記号をその速度に負けず、聞き取ることだ。厄介なものを抱え込んでしまった。
単語の多さにも感心した。休みには「おお先生」と魚釣りをしながら、単語を貪った。
小型のテープレコーダでロシア語会話のヒアリングも繰り返した。
あとで聞いたことだが、日本の公安調査局がビーズをマークし、尾行さえつけていたという。もしかしたら、電話も盗聴されていたかもしれない。ご苦労なことだ。

ある晩、海運会社のスタッフがロシア人(当時はソ連人)女性を連れて来た。
ふたりのロシア人船員も同行していた。海運会社スタッフは「大宮と申します」と名刺を差し出してきた。大宮の話によれば、船医の見立てでは盲腸(虫垂炎)だという。残念ながら本船では器材と薬剤が不足しているので、こちらで応急処置願えないかという。
患者の名はマリア、24歳の船コックだった。ビーズは患者を診ながら、こんな美人でもコックをするのかと変に感心した。マリアは体を前に丸めて、声も出さず、お腹を押さえている。ビーズは重病患者に対して良からぬ「値踏み」をしたことを恥じた。
症状を尋ねると、激しい腹痛と吐き気、高熱があるという。触診と白血球、超音波の検査結果は確かに虫垂炎だった。「ボーリナ?」と尋ねたら、マリアはロシア語が嬉しかったのか、笑顔で「ダ、ボーリナ」と答えた。「痛いかですか?」「はい、痛いです」という簡単な会話だったが、ビーズにとっては生まれて初めての記念すべきロシア語会話だった。
大宮は「ソ連船には盲腸のための抗生剤がないので、出来れば、それを処方してくれませんか。ここで時間を取られると色々と問題があってね」という。
ビーズは「この状態では薬で炎症を散らすことは正解ではない」と、大宮の提案を撥ねつけ、すぐに手術を始めることにした。マリアを診察台のうえに寝かせ、局部麻酔をした。大理石のように綺麗な肌だった。これを切るのは無残と思ったが、仕方のないことだった。出来るだけ小さな穴を開けて虫垂を切除した。虫垂炎は予想以上に大きかった。このままでは腹膜炎を併発させるところだった。
手術後、安定剤を打って寝かせつけた。体温、脈拍、血圧を測り、点滴も始めた。
朝早く大宮とロシア人船員二人がやって来て、「本船は今日の午前10時の出港だから、今からマリアを引き取る。治療費の請求は会社あてに出してくれ」という。
「とんでもない。今暫しは患者を動かすことは出来ない。さっき切ったばかりではないか。術後の経過を見なければならない。動かしたら縫合部分から出血する。抜糸にも時間が必要だ。癒着の危険もある。それにソ連船では薬剤投与もままならぬではないのか」ビーズは怒った。
海運会社の大宮とロシア人船員は田中医院の待合室で顔を突き合わせて話し合い、夫々が会社と船に電話をし始めた。その結果、本船出港を翌朝10時まで延ばすことになった。大宮は「会社にとって大変な出費だ」と苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

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2010年11月 5日

ビーズ (パミールのはてに) vol.4 伽耶雅人

医学は好きだった。医学部では高校時代には想像もできなかったほどの膨大な記憶量を求められる。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、毎日分厚い本一冊を読んで、その全てを頭の中にしまい込まねばならないほどの凄まじさだった。しかし、すべてが合理的で(勿論、例外もあるが)、常に「なぜ」に対する回答があった。
ひとりぼっちのビーズにとって「なぜ」を突き詰めて考えることは興味深く、胸が躍る思いだった。ただ、「なぜ」が広がり過ぎて収拾がつかなくなることも多々あった。
当時は学生運動が盛んな時代だったが、彼はその流れの中に入ることが出来なかった。
学生運動を否定するというわけではなく、人の中に入っていくことが出来ないだけだった。
ただ、学生活動家たちの「変身」には戸惑った。明日にも日本を土台から引っくり返すような檄を飛ばしていた連中が、卒業が近くなると分別のある社会人になってしまった。学生運動に参加せず、何もしなかった自分だけが、体制に対する精神的な反抗児のままで残ってしまった。

医学部の中でひとり、岡山県の津山K高卒の高橋という男とは親しくした。高橋が裕子と同じ高校卒だということで親しみを感じた。勿論、だからと言って、裕子のことを聞くことはなかった。聞く勇気も自信もなかった。

在学中に両親が死んだ。火事だった。火元は石油ストーブらしい。あっという間に実家は焼けてしまい、両親の黒焦げ死体が見つかった。その時、ビーズはその場にいなかったせいか、親の死に実感が涌かなかった。火事の始末や葬式は母の兄が取り仕切ってくれた。
初めて見る伯父だった。彼は「火元だから、ご近所にそれなりの償いをしなければならない」と土地すべてを売り払い、収支明細書を見せてくれた。懐かしい花畑も売りに出された。ビーズにはほんの僅かの遺産と天蓋孤独の身が残った。
ある日、伯父がやってきて「君の義眼は不釣合いだから、つけ替えた方が良い。今、眼球が動く義眼もあるらしいからそれに替えてはどうか。実は私の知り合いで、君のお見合いの相手になりそうな娘がいる。医者の卵ならまったく申し分ない。しかし、その眼ではねえ」という。ビーズにはその伯父がひどく下卑た男に思えて、すべて即座に断った。

落ち着いてから、一人で墓参りをした。お経など知らないので、立ったまま墓石をじっと見つめていた。そうしていたら、そこに、にこにこ微笑んでいる父母が見えてきた。
目の錯覚とは思うが。それに、冷えた心がなぜか温まってくるのさえ感じられた。
ビーズは墓石に「俺はどこからこの世にやって来て、どこに行くんだろう」と尋ねた。
答えはなかった。あの坊さんが正しいように思えた。
「どこからも来ず、どこへも往かぬ。無から生まれ、一瞬光り、無にもどる、か」

それから、よく言えば孤軍奮闘、実際は孤独と貧窮の中(解剖材料の小動物さえ重要な蛋白源だった)寝る間も惜しんで必死に頑張った。医学部は旧態依然たる身分制度と凄まじい激務の中にあった。
戦後、長らく「インターン」と呼ばれる臨床研修制度があった。これは大学卒業後、一年間の実地研修をした後に医師国家試験の受験資格を得られるというものだった。つまり、研修の期間中は学生でも医師でもなく、不安定な身分での診療を強いられた。また給与の保障も殆んどなかった。インターンのまま医師免許を取得できない「インターン崩れ」も多かった。
1967年、全国でインターン制度廃止を叫ぶ医師国試阻止闘争が起こり、各大学の医学部は大荒れに荒れた。結果、1968年に医師法が改正され、インターン制度は廃止された。
こういう状況の中、ビーズは医師免許を取得し、過酷な臨床研修も終えた。

研修終了後、わけもなく裕子に電話がしたくなって津山に電話を入れたが、津山には原恵一という人はいなかった。あれから10年の月日が流れた。原家はどこかに移転したのだろう。
ビーズは津山K高卒の高橋に電話を入れ、同窓会名簿で原裕子のその後を調べてもらった。彼女は結婚して、伊藤という姓になっている。住所は京都の近くの亀岡市夕陽丘... 
ビーズは「これで過去は終わった」と思った。

医大の主任教授は自分の息のかかった病院に医師を配る。出来の良い者、毛並みの良い者、自分に従順な者を、病院の格の高い順から卸して行く。
教授はビーズに隣県の市民病院を紹介してくれた。「ここは将来有望な拠点となるから無理押しにでもウチの者を押し込んでおきたい。君はここに行ってくれんか。いずれはウチの大学病院に帰れるようにするから」
ウチとは我が家という意味だが、ここでは我が大学、我が学閥、我が一門という意味になる。ビーズの父親がこの教授の遠縁に当たるらしく、彼はビーズをウチの人間と考えていた。
一方、ビーズはこのような門閥的な陣取り合戦には生理的な嫌悪感さえ感じ、目を下に向けたまま断った。教授は「こんなに従順に見える学生が」と意外に思ったが、彼の脳はビーズを反体制・異端者と認識した。これで爪弾きは確定した。ドロップアウトだ。
だが、当時は(今でもそうだが)医者が絶対的に不足していた時代だったから、ドロップアウトはドロップアウトなりに職場を見つけることが出来た。
日本海側の漁港町の開業医がビーズを受け入れてくれた。田中医院という、看板がなければ、汚い駄菓子屋と間違えるほどの代物(しろもの)だった。
田中先生は70歳に近いお爺さんだったが、患者達から慕われていた。患者の話を根気よく聞き、心のなかの泥を吐かせたうえで、運動と魚菜、陽気暮らしを勧めた。
「根気が肝心」が口癖だった。薬は気休め程度にしか出さなかった。ビーズは「少し俺の親父に似ているな」と思った。院長室のなかは書類や医療器具が乱雑に散らかっていた。
田中先生はビーズが仕事を始めると、待ってましたとばかり魚釣りに懲り始めた。
患者たちは田中先生がいないのを不満がった。
「病気のことはお前よりわしの方がよう知っとる。わしは田中先生の治療を受けに来とるんじゃ、青二才のお前なんぞにわしの病気が分かってたまるか」と言わんばかりだった。
ビーズは青二才ながら、患者を診察し、必要な処置をした。機械の使い方も得意だった。
彼がやれば、注射も痛くない。胃カメラを呑んでもまったく苦しくないという(ビーズ本人は、こんなことは自分の能力には関係のないことだと思ったが)評判も取った。
田中先生のやり方には始めのうちは抵抗も感じたが、慣れてくると「これでいい」と思うようになった。ただ、決して儲かる商売ではなかった。一人に当てる時間が長かったし、自転車に乗って往診もし、点数の多い投薬は避けた。彼は患者たちの経済状態をよく知っていた。
口やかましい患者たちもビーズをしだいに受け入れてくれるようになり「若先生」と呼ぶようになった。若先生に対して田中先生は「おお先生」と呼ばれた。「おお先生」が病院に出ていると患者達は嬉々としていた。ビーズも「医者たるもの、こうでなくては」と思うようになった。
「おお先生」は終戦後、ソ連抑留を経験していた。復員してから大学の医学部に入り直して医者になった。抑留時代の事はあまり語りたがらない。
だが、酒が入ると、ぽろっと当時の話がでることもある。「水が欲しいときは『ワダー・ナーダ』というんだな。わりと分りやすいじゃろ。そうだ、そうだは『ダ・ダ・ダ』だ。『ンダ、ンダ』と言ってもええ。腹が減ってな、わしらは何でも食べた。木の根も、ソ連兵の食べ残した魚の骨も食べた。骨を食べた者は生き残った。時々、よほど運が良いと森の中で茸(きのこ)を見つけることもあった。勿論、生で齧りつく。毒茸でも我慢ならず食らいつく。茸はちょうど地雷原のようなもんだったな。ちょっと間違えれば命取りだ。でも、そんなことはまだ序の口でな、、生き残るためには心も売った。辛かった。わしはせめてもの罪滅ぼしのために医者になることにしたんだがな」という。
機嫌が良いと「わしの趣味だが」と、ビーズに指圧を教えてくれた。その効果は趣味の領域を超えていた。「薬も暖もないシベリアでは多くの抑留者が指圧で命を長らえたな」という。
ビーズはそれまで按摩や指圧など見向きもしなかったが「なるほど、何がなくても最後は手を使って病を治し、人を救うという手があるのか」と、それからは謙虚に指圧を学ぶことにした。

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2010年11月 3日

ビーズ (パミールのはてに) vol.3 伽耶雅人

囲炉裏(いろり)の上に魚の形をした吊り具があり、その下に黒い鉄鍋がぶら下がっていた。わけの分からない食べ物が中に入っていた。麦と山菜と鶏肉のようだった。
「坊さんも鶏肉を食うのか」
「人間は生まれながらにして罪深きものよ。食わねば生きていけんでのう。お前も食うがええ。お前はこのあたりの人間ではなさそうじゃが、こげなところで何をしておる」
「夏休みで、津山まで自転車旅行をしとる」
「そうか、腹いっぱい食うたら、離れで寝るがええ。ところで、お前は面白い顔をしとる。わしは少し人の相を見るでのう。ほう、お前はこれからも随分、苦労するようじゃな。若いうちは人に恵まれんの。遠くに人が待つ。わしは人の相を見て、説教をするのが趣味での。飯を食わせたついでに説教をたれよう」
「坊さん、説教を聞いてあげる。でもその前に聞いておきたい。人間はどこから来て、どこに行く。自分はなぜ、この自分なのか」
「それだけか。それじゃ、わしが説教をたれよう。どこからも来ず、どこへも往かぬ。
人は無に生まれて、一瞬を光り、また無に戻る。一瞬の光の間をがむしゃらに生きなされ」
「無から無に戻るって。坊さんの言うこと証明できるか。それに、なんで俺が俺なんだ」
「証明でけんから、人生は面白い。それに、なんでお前がお前か?それこそ神のみぞ知るじゃ。お前は犬にも猫にも魚にもなり得たわけじゃけ、少なくとも今回、たまたま人間になったことを喜ばにゃならんぞ。人間という最高の箱物を貰ったんじゃけ、中味もそれに見合ったものにせにゃならん。お前はまだまだお前になりきっとらん。自分を閉ざさず、多いに生きなされ。もがいて、もがいて、もがきまくって生きるんじゃ。そうしたら、生きることもまんざらじゃないと思えるようになる。そのとき、やっとお前がお前になるんじゃけ」
「よう分らんけど、おもろい。ところで、坊さんは坊さんになりたくて、坊さんになったんか」
「そうさな。昔、わしは極道じゃった。子供が死んで、女房が死んだ。みな、わしのせいじゃ。それからは、夜は眠れず、つらい毎日での。息を吸うのも厭になったほどじゃ。
わしはいつも死んだ女房に、『三途の川の向うに極楽浄土や天国があっても、そこには往くなよ。幽霊でも、お化けでもいい。わしが死ぬまでわしの傍におってくれ。つらい。お願いだ』と頼んだもんじゃ。そんな或るとき、子供を抱いた女房が夢枕に出て来おってな、『あんた、この子のことは忘れたのかい。相変わらずだね。まあ、いいさ。そばにおってあげるよ。でもね、少しは人の悲しみを知って、人のために生きることも考えるんよ』とこきやがったわ。いや、息子が『お父ちゃん』って、わしの胸に飛び込んできおった時にや、わしはもう何も言えず、わんわん泣いたね。わしはこんなかわいい子を見捨ててしまったんじゃ。心が張り裂けそうになった。目覚めてからもわんわん泣きつづけた。まあ、わしにもちらっと仏の心が芽生えたんかいのう。それで、あまり考えもせずに、ここの坊さんに頼み込んで墓守りになったわけじゃが。その坊さんも死んでしまったから、今はここの墓守りと坊さんを兼ねとる。まあ、自給自足のような生活じゃが、なんとか生きとる。坊さんになりとうて坊さんになったわけじゃないし、心は今でもふらついとる。お経を読むことだけは覚えたがの」

ビーズはこの坊さんの説教とやらに夜遅くまで付き合わされた。
囲炉裏火(いろりび)のせいで、坊さんの影が壁に当たって揺れ動き、踊っているように見えて気味が悪かった。山里の夜は冷え冷えとしていた。
「人生は無から無までの一瞬。もがきまくって生きなされ、お前がお前になるでな」という言葉がビーズの心に残った。

出発してから3日目に岡山県側の蒜山高原に出た。
ビーズは驚いた。こんな雄大な高原が日本にあったのか。
何もかもスケールが大きい。緑の草原や森がはるかに続いている。
明峰大山(だいせん)のうしろ姿がはるかに見える。予期せぬ絶景だった。
いつか馬に乗って、ここを駆けめぐりたいと思った。
裕子とふたりで馬を走らせている姿を思い浮かべた。ビーズの顔がほころんでいた。
そのせいか、途中、道に迷った。坊さんが別れ際にくれた干し芋がビーズを救ってくれた。この干し芋がなかったら、きっと津山を見る前に餓死していただろう。
4日目にしてようやく津山の城跡が見えてきた。津山市街は坂下の盆地だった。
自転車に乗り、城下町に向かう急坂を気持ちよく突っ走った。が、勢いあまって道路の側壁に激突してしまった。
荷物は散乱し、前輪が曲がってしまった。走行不能の自転車を引きながら、津山の城下に入った。お坊さんが言った「これからも、随分苦労するようじゃが」が的中したと思った。

公衆電話の電話帳で「原」を探した。「原」という名前は20もあった。「原」の多い町だ。
「去年、こちらに引越して来られた原さんですか」と質問を繰り返し、10番目あたりで、ようやく原恵一という人がそれであることを見つけた。母親らしい人が出て来た。
「あのう、裕子さんはいらっしゃいませんか」
「裕子はテニスの合宿で岡山に行ってますが、どちら様でしょう」
「坂本聡です。こちらに来たついでにと思い.. 」
「ああ、あの坂本君。裕子はいないけど、お寄りになりませんか」
「いえ、結構です。ついちょっと用事で来ただけですから.. 」
ビーズは「あの坂本君」という言い方に少し引っ掛かるものを感じたが、そんなことを
裕子の母と議論する余裕などなかった。汗びっしょり、緊張で喉はからからだった。
「折角だったのに残念でしたわね。今度いらっしゃるときは前以て連絡いただければ」
「はあ、済みません。それでは、どうも」と、歯切れ悪く受話器を置いた。
裕子はテニスの合宿か。その姿を想像すると、あまりにもまばゆ過ぎた。
「もう彼女は自分とは別の世界で呼吸しているのだな」
ビーズはみじめな寂しさとともに津山の駅を山陰に向かった。
汽車のなかで駅弁を食べながら、自転車を壊してしまったこと、お金をたくさん使ってしまったことを心のなかで親に謝り、涙をこぼした。

その後、孤独な高校生活を送った。
大学はずっと昔から医学部に入るものと決めていた。
親の負担を考えて、近くの国立大学の医学部にした。皆、東京、京都、大阪の大学を志望したが、ビーズにとっては特に都会に出る理由がなかった。
駅弁大学と言われたが、中にはずば抜けて頭の良い者もいた。
ビーズの成績は良かったが、級友とは馴染めなかった。当時は医学も電子化の走りの時代で皆、電子工学的な医学に熱中した。
ビーズは無医村の医療を考えた。皆が「狭く、深く」を志向している中でビーズは「広く、手厚く」を望み、「大学の友」という文集に「千手観音こそが我が理想」と書き込んだ。
あの坊さんが「多いに生きなされ」と言ったのは、「生きている間に少しでも意味のあることをやりなさい。思いっきり汗をかいて自分に納得のいく生き方をしなさい。どうせ死ねばすべてが無に戻るのだ」ということだと自分なりに解釈した。

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2010年11月 1日

ビーズ (パミールのはてに) vol.2 伽耶雅人

中学校三年の時、裕子は親の都合で山脈を越えた岡山県の津山に引越して行った。
彼女はビーズにやさしくしてくれた唯一のひとだった。彼は片思いの相手を失った。
ビーズの心は、灰色の世界にひとり取り残された。実際、山陰の小都市の冬は町並みも空もどんよりと暗い灰色だった。

高校入試が終り、休みに入ったので、多少の小遣いを持って自転車で津山に向けて走った。出だしは良かった。自転車は春風を切って走った。気分は高揚した。だが、最初の平野部を過ぎると、あとは行けども行けども登り坂で自転車を走らせることは出来なくなった。
殆どが自転車を押して歩くだけの道だった。津山までの1割も行かないうちに陽が暮れてしまい、寝る場所もなく、一晩を震えながら過ごした。
次の日も自転車を押した。夕方になって悪寒と熱が出てきたので、津山行きはそこで頓挫してしまった。生まれて初めて感じる「青春の挫折」だった。裕子は自分の手の届かぬところに往ってしまった。

桜の開花とともに授業が始まった。彼の高校には県西部のかなり広い地域から生徒が集まっていた。言葉も、顔も見なれない者が多かった。ビーズに近づいてくる者もいたが、彼らは時と共に遠ざかって行った。
「義眼」の薄気味悪さも原因だったかもしれないが、それよりビーズの陰気で、もの怖じしたような態度が彼らの気持ちを萎えさせ、遠ざけた。ビーズはいつも一人で行動した。人との会話は、目を伏せているだけで緊張と疲れを感じた。
目を伏せる時は無意識に顔も斜めに向けていた。

彼は時々、暗い寝室で「なぜ、自分という意識を持った者がここにいるのだろう。自分はどこから、この世にやって来たのだろう。自分が死んだらどこに行くのだろう」と想うようになった。いくら考えても、答えが出ない。
何かの間違いで忽然と生まれ、同じく特別の理由もなく忽然と消えてしまうのか。ただ、どうしても解せないのは、他でもない自分という意識を持った物がここにいるという事だ。なぜだ。
自分が死ねば、自分にとっては裕子も、家族も、友達も、地球も、宇宙も消滅する。
なぜ宇宙の片隅に自分というものが出来たのだろう。世界中の誰も同じ疑問で頭を悩ませているのだろうか。呑気な常人の顔を見ていると、そうは思えない。

夏休みが来た。ビーズは毛布と勉強道具を持って、津山まで「青春行脚」をすることにした。途中は自転車を押すだけの道だが、この季節は野宿も怖くない。
山は蝉の声が騒がしい。あざみの紫が目に染みる。澄んだ空気は心を蘇らせ、沢の水は冷たく、美味しかった。
途中、疲れると大学入試の問題集を開く。どうしても分からないところにはX印をつけて先に進む。英単語帳は丸暗記することにした。単語帳を片手に英単語をぶつぶつと念仏のように唱えながら、自転車を押した。空気が清涼なせいか、英単語は意外と淀みなく大脳に吸収されていった。
沢の流れが快い。こんな所にもかなり大きな蟹がいた。恐らく沢蟹というのだろう。爪に毛が生えている。ビーズは捕まえた蟹を焼いて食おうかと思ったが、蟹の左手がないことに気付き「お前もカタワか。頑張って、いい相手を探せよ」と、逃がしてやることにした。
昼はあんパンと牛乳で済ませた。
夜は木陰に新聞紙を敷き、その上に毛布をかけて布団にし、問題集を枕にして寝た。
朝早くから喧しいほどの小鳥のさえずりが聞こえ、目が覚めた。あたりは小さな白い花が群生していた。「春過ぎて、夏来にけらし、白妙の衣ほすてふ天の香具山」
小さな花の群れだったが、「白妙の衣」のように鮮やかにビーズの目と心に染みた。
更に進むと、道は山峡に沿って大蛇のようにうねっており、陽の当たるところは暑かったが、木陰に入るとランニングシャツだけでは寒かった。
まれに平坦な場所も、下り坂もあった。その時は、ここぞとばかり自転車に乗った。
生き返った心地がした。右手には、日野川がごうごうと音を立てて流れていた。

途中、根雨(ねう)という小さな町に出た。根雨の先には小泉八雲の「怪談」に出てくる黒坂という部落がある。怪談にはこういう一文がある:
 
出雲の隣国、伯耆の国に黒坂と云ふ部落がある。
この部落のはづれには一条の瀧があり、この瀧は昔から幽霊が出ると云ひ伝へられてゐる。
明治の初め頃の話である。この黒坂には麻取り場があり、寒い冬の夜などは下賎の娘や女房達がよく骨休めに炉を囲んで世間話をしてゐた。
そんなある日、一人の女が「今夜、この先の大明神の賽銭箱を取つてきた者には私達の麻をみんなやらうじゃないか」と云ひ出した。
みんな退屈だつたので賛成はしたものの、さすがに恐くて行かうとする者はない。   すると、大工の女房が「それじゃ私が行かう」と云つて、二歳になる男の子を負ぶつて出かけた。
さて、女は無事、町はづれの大明神にたどり着き、賽銭箱を取つて帰らうとした。   ところがその時不意に其の瀧の方から「おい、おかっさん、おかっさん!」と呼びかける声がする。さすがに豪胆なその女房も恐ろしくなり、急いで賽銭箱を抱へると一目散に逃げ帰つた。
残つた女たちはその女房が無事帰つてきたのでホッとした。そして一人の老婆が立ち上がり、「子供は泣かなかつたかい、寒いから早く降ろして暖めてあげない」と云ふ。女は子供を降ろし、火に当ててやらうとして見ると、その子供の躰には首がなかつた。
黒坂の瀧大明神に二歳の子供を連れてきてはならぬと云ふのはそれ以来の事らしい。
《参考文献》小泉八雲著、平川祐弘編『怪談奇談』,講談社学術文庫

根雨の町を南北に走る一本道の町角に食堂があり、ビーズはそこで肉うどんを注文した。こんな美味いものがあったのかと思うほど美味だった。
食堂から出て、コの字形の道を進んだ。コの字の最後のところに来てから、帽子を食堂に忘れたことに気づいた。ビーズは逆コの字に道を引き返した。食堂があるべきところまで来た。見覚えある町角はあった。ところが、食堂はなかった。あたりをあちこち歩きまわったが、あの食堂はどこにも見あたらない。ビーズは「おかしいな」と呟きながら、いま来た道を引き返してみた。人気のない道路を狐が歩いていた。大きな狐だった。
気味が悪くなって、急いで町から出た。

夕方に山寺を見つけ、石段を登った。境内はきれいに掃き清められ、鮮やかな赤い花が植えられていた。西日が本堂の白壁を明るく照らしていた。
どこからともなく異様な袈裟を着た男が近づいてきた。坊主というよりマントを来た魔人のようだった。ビーズはどきっとした。
これは怪談に出てくる貉(むじな)か、のっぺら坊ではないか。逃げるか、木の棒でも拾って闘うか、ビーズはあたりに目をやった。
袈裟の男は目を吊り上げて「かっかっかっか」と笑いだした。ビーズは体が硬くなって動けなくなった。世に言う「金縛り」の状態だった。魔人はビーズの顔をまじまじと眺め、「これは面白い顔だわ。わしについて来い」という。
ビーズは急に体の力が抜けて、とぼとぼと袈裟に従った。本堂の傍を通って、墓場の手前の庫裏に導かれた。このお寺はこの坊さんひとりのようだった。

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2010年10月29日

ビーズ (パミールのはてに) vol.1 伽耶雅人

ビーズ
医界からドロップアウトしたビーズは「身の捨て場」を求めて中央アジアの秘境を訪れた。キルギスタンでは地上から雪の山並を見上げていたが、世界の屋根パミール高原ではいつも山並のなかに自分がいた。


ビーズの本名は坂本聡(さとる)といった。山陰の片田舎に生まれた。
彼は子供の頃、左目を怪我で失明してから,義眼を入れている。この地方では片目のことを「メカチャ」と言った。多分に嘲笑的な響きがあった。
彼は「メカチャ」と呼ばれるのが一番厭だった。それは彼にとっては「妖怪」と言われるのと同じだった。いじめっこ達が面白がって「メカチャ」と呼ぶ。彼は泣きながら、歯を剥いて咬みついていった。その効あってか、いじめっこ達も「メカチャ」とは呼ばなくなった。
この地方ではビーダマのことを「ビーズ」と呼ぶ。義眼がその「ビーズ」に似ていることから「ビーズ」とあだ名されるようになった。彼は「ビーズ」が気に入った。
少なくとも「メカチャ」のような妖怪じみたイメージはなかった。

元医者だった父が町から4~5キロも離れた所にかなり広い土地を買って、花畑を作っていた。花畑の中に高床式の小屋を立てて寝泊まりもしていた。ガス、水道、電気もなく、灯りは石油ランプ、水は手漕ぎ式のポンプだった。
よく言えば「唯我独尊」の父はそこでダリア、アネモネ、グラジオラスなど色々な花、それにスイートピー、苺などを栽培したり、絵を描いたりしていた。画調はゴッホに似ていたので、周囲の人々は「山陰のゴッホ」と呼んだ。花畑の花は父の画材になるだけだった。
花畑の縁に、今ではアスファルト道路の下の暗渠となってしまったが、きれいな小川があった。ビーズはその小川が大好きで小学校に入った頃からしばしば父の小屋で寝泊まりした。川幅3メートルほどのほんの小さな川だったが、豊かな清らかな水、踊るように揺れる川草、川草の茂みを縫って走るフナやハヤなどに心が惹かれた。
フナやハヤはビーズにとっては美しく、気高く、それゆえに追捕の対象だった。
それは少年期の男特有の狩猟本能か、子猫が動くものを追い回し、捕まえようとするのと似ていた。
ビーズはいつも竹笊(ざる)で川縁を攻めたが、つかまるのは年端も行かぬ小魚だけだった。彼はつかまえた小魚を父が小川から水を引いて作った瓢箪池に入れて飼った。
魚が大きくなるのを待ったが、知らぬうちに失踪していた。今考えたら、父がこっそり逃がしてしまっていたのだろうが、当時はそれに気がつかず、懲りず、日課のように大きな竹笊で小川の小魚を追った。時にはオタマジャクシの親分のような鯰(なまず)が獲れることもあった。

父はビーズの懲りようを医者の目で「自閉症の一種ではないか」と時々心配そうに見ていたが、「他人に迷惑をかけるわけでもないし、そのうちに気性も変わるだろう。そう言えば、私も凝り性だったな」と自分なりに納得していた。
当時は問題にならなかったが、自閉症の一種にアスペルガーと呼ばれる症候群がある。この頃のビーズにはアスペルガー的傾向があったと言える。当時の彼は殆んど「自分の世界」の中で生きていた。

市内の実家から父の花畑に行くまでに数個の村落を通らねばならない。
それぞれの村には必ずワルガキがいて、よそ者を敵視していた。
義眼のビーズなら尚更だった。彼は叩かれたり、追われたりするうちに、反抗することをおぼえた。石ころを投げ、敵意を顕わにし、棒を振り回せば、相手は怯(ひる)む。
いつも石ころをポケットに入れ、硬い木の棒を持って歩くようになった。
学年が上がると剣道部に入った。片目のハンディゆえに(片目は相手との距離が掴みにくい)懸命に頑張った。ビーズは「捨て身」が勝ちを呼ぶことを知った。
不思議なもので、知らぬ間にワルガキどもに叩かれたり追われたりすることもなくなっていった。ワルガキはワルガキ特有の嗅覚でビーズから何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。

学校は退屈だった。いつも霞んだ気持ちで過ごした。
テストの時はわざと答えを間違えることが多かった。皆から目立つのを怖れた。
「義眼」は彼の心を内に閉じ込めた。人と話すのが非常に苦手だった。特に原裕子は苦手だった。裕子は頭もよく、美しかった。皆の憧れの的だった。
小学校一年の最初の席が裕子の隣りだったが、そのときは何も思わなかった。
数ヵ月後、クラス内の「席替え」で裕子と離れ離れとなってしまった。それから一度も隣りの席は来なかったが、ずっと裕子のことを思い続けた。随分ませた男の子だった。
裕子はビーズに優しかった。筆箱のなかを調べて鉛筆を削ってくれたり、書き取りノートを見て、間違いを直してくれたりした。一番嬉しかったのは彼女がビーズを「聡君」と呼んでくれることだった。

学力テストがあった。普通の算数や国語のテストではなく子供の知能を見るテストだという。裕子が廊下で「聡君、頑張って」と声をかけてくれたのでビーズは嬉しくなって頑張った。学年でトップを取り、裕子が二番だった。
先生も驚いていた。教室で結果発表の時「時々、こういうことがあるんだよね」という。
「まぐれ」と言わんばかりだった。ビーズは戸惑った。
本来、教師に対し怒るべきだったが、その時はなぜか、やってはいけない事をやってしまったような罪悪感に囚われた。わけもなく裕子を傷つけてしまったと思い、気が塞いだ。
裕子に出会うとビーズは、もともとの伏せ目を更に下に伏せるようになった。

ある時、先生が「好きな色紙を二枚ずつ選びなさい」というので、ビーズは花畑に咲いていたスイートピーを想って、薄黄緑と薄紫を取った。
「こんな色を選ぶとは」と先生はビーズの精神状態に何か異常でもあるのでないかと保健医に相談した。保健医は訳の分からないグロテスクな絵図をビーズに見せて、感想を訊いた。
ビーズは二つの答えを用意して、無難な方を答えた。それはそれで済んだが、それ以来ビーズは色紙を選ぶときは普通の子供達が選ぶ色にした。青とか、緑とか。

小学校6年の時、学校主催の海水浴があった。
砂浜のある町まで汽車に乗り、そこの小学校の体育館で着替えをして、海に突進する。
ビーズの学校の近くにも泳げる場所はいくらでもあったが、ここは遠浅の海だから「安全な場所」として学校の海水浴場に選ばれたようだ。
ビーズは海で足を岩にぶつけ、軽い怪我をしたため薬をつけてもらって、体育館で休憩をしていた。裕子が海から上がってきて、そそくさと着替えを始めた。
腰に巻きつけていたバスタオルが外れ落ちた。何も身に着けていなかった。
ふとビーズが近くにいるのに気づいて、「あらっ」とビーズに微笑みかけた。彼は見える目を下に伏せた。裕子はあわてて服を着た。ビーズの胸はいつまでもドキドキしていた。この世で最高のものを見てしまった。

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2010年10月27日

ビーズ (パミールのはてに) vol. 0 連載予告 伽耶雅人


パミールとは中央アジア、タジキスタンを主として中国、アフガニスタンにもまたがる「世界の屋根」と呼ばれる大高原のことです。
この「屋根」から仰ぎ見る銀河は目にまばゆいほど。そして、朝靄の渓谷はさながら幻想の世界..
ところで、中央アジア、タジキスタンなどと言ってもピンと来ない人も少なくないでしょう。
タジキスタンはもとソビエト連邦の一共和国でしたが、1991年ソ連崩壊後、大混乱の中で内戦が勃発し、各国政府の退避勧告の対象地域となりました。
一方、その頃の私はといえば、商社マンとして崩壊後のソ連域(ロシア、ウクライナ、コーカサス、中央アジア諸国など)での商圏拡大のため各地を巡り歩いており、タジキスタンの隣国、ウズベキスタンにもしばしば訪れました。
そのウズベキスタンの東端フェルガナ盆地(嘗ての大宛国)はとても印象深い所でした。昔、ここは走りながら血の汗を流すという名馬「汗血馬」の産地で、漢の武帝は汗血馬ほしさに十余万の兵を遥々ここまで送り込んだそうです。当時、汗血馬は騎馬民族「匈奴」に対する最新最強のハイテク兵器だったのです。
話戻って、ウズベキスタンの首都タシケントからフェルガナ盆地への途中に高い峠がありますが(たしか標高2200m)、山道は未舗装で、雨が降ると通行不能となります。そういう時は内戦中のタジキスタン領内を通って首都タシケントとフェルガナ盆地の間を往復したものです。
当時、(今もそうですが)タジキスタンは旧ソ連圏15カ国の中でも最貧国と言われるだけあって、人々の身なりも家屋もみすぼらしいものでした。途中、痩せた羊飼いとよく出あいました。悲しそうな顔をした難民らしき人々の群れにも。
彼らの表情を見ていると何か胸にぐっと来るものがあって、この印象をあとに残しておきたいと思い、旅行手帳に「ミール」という言葉を書き込んだのが本編を書く切っ掛けとなりました。
「ミール」とはロシア語で「平和を」という意味。旅人の私と目をあわせた難民の一人が発した言葉でした..
本編は10月29日からの月・水・金(週3回)約2ヶ月半の連載となる見込みです。

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